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「もうやめてくれ、頼む。俺が悪かった。お前と、お前の人生を全て俺のものにして、何もかもをやり直したかったんだ。自分の人生の不幸の負債をお前で返したかったんだよ。お前の才能が眩しすぎたから。俺にはない、天性のセンスに怯えたから」  もう彩にはそれが何の曲か分からなかった。目まぐるしいトリルにトレモロ、激しい音階の上下動、テンポもリズムも何もかもが破壊的としか言えない演奏なのに、胸に入ってくる。 「お前には悲しみの旋律という最高の才能があるじゃないか? なあ、俺をこれ以上苦しめて何になる? 俺の人生は辛いことばかりだったが、お前だけが唯一光だった。お前がいたから、俺はあの期間、初めて人生をちゃんと生きているという充実感があった。なのに、その才能を与えた俺に、これがすることか? 恩返しなのか? それとも……復讐なのか?」  香美村孝幸に、誰かを恨んだり、呪ったり、憎んだりするような感情が存在するのだろうか。彩にはどうもしっくりとこない。それでも目の前で繰り広げられている演奏は、ただただ石塚を責め立てているようにしか思えない。  やがてそれは音楽ですらなくなった。ただ子どもががむしゃらに、好きなように鍵盤を叩いている。  才能の欠片もない、遊戯の延長としての打鍵。  不協和音を超えた歪な音と音の響きが空間を満たし、心を満たし、感情を満たし、思考を黒で塗り固めた。  一体どれくらい、そうしていただろう。  気づくと石塚は口から泡を拭いて、車椅子の上で失神していた。  彩は慌てて携帯電話で救急車を呼んだが、香美村孝幸はいつもの公演後と同じように、ただ天井を見上げ、放心したようにその場を動こうとはしなかった。  それから一月後、石塚扇太郎は施設の中で首を吊って亡くなった。スタッフは特に予兆のようなものは感じなかったという。直前まで普段と変わらず、認知症の症状は見られたものの、特に何かに怯えているとか、混乱しているとか、酷く落ち込んでいるといったことはなかったそうだ。  その連絡を受け、島崎彩はロスのホテルに滞在中だった香美村孝幸の部屋を訪れていた。 「入ります」  半開きになっているドアから中に入ると、彩は言葉を失った。  開け放たれたカーテンと、床に散らばった数々の楽譜。それが風で舞い上がっていく。  そして部屋のどこにも香美村孝幸の姿はなかった。
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