【ハムレット&チェルル】君を忘れない

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【ハムレット&チェルル】君を忘れない

 始まりは、本当に些細な物忘れだった。 「ねえ、猫くん。診療鞄どこか知らない?」 「え? それならいつもの所にあるよ先生?」 「え? ……あ、れ? 本当だ」 「……」  歳なのはその通りだった。ショックな事もあった。大事なランバートの方が先に死ぬなんて、この人は想像もしていなかったんだ。  でも少しずつ、少しずつ……砂時計の砂がこぼれ落ちていくみたいに、先生の記憶は消えていった……。 ◇◆◇  何でもない朝。一日の始まりは先生を起こす所から始まる。  綺麗にしている部屋で寝る先生は随分と歳を取っていて、栗色の髪はすっかり白くなった。食事もむずがって食べたり食べなかったりだから痩せてしまったし、筋力も落ちた。  それでも、俺にとっては大事な先生のままなんだ。 「先生、おはよう。朝だよ、起きて」  カーテンを開け、窓を開ける。新鮮な空気が部屋を満たしていく。  先生はゆっくりと目を開けて、こちらを見てしかめっ面をした。 「誰? なんで僕の部屋にいるの」  警戒する不機嫌な視線を受けて、痛まない部分がないわけじゃない。それでも、慣れた。もう先生の中に俺はいないんだ。 「先生の猫だよ。もぉ、拾ったの先生なのに酷いな」 「嘘だ。僕は猫なんて飼わない」 「それでも、先生が俺を拾ったんだよ」  そう言って、俺は首につけている首輪を見せる。ニアとお揃いだった赤い首輪にはこの人の文字で飼い主のところに署名がある。それを見ると苦い顔をしながらも認めなきゃいけないみたいだ。案外律儀なのだ。 「覚えてないのにな」 「拾った方はそうかもね。でも、拾われた方は覚えているよ。だって、嬉しいから」  そう、嬉しいんだよ。貴方に拾われて、楽しい時間も温かい気持ちも貰ったから。  ギュッと痛むのを、噛み殺した。あの時間はもう、先生の中にはない。忘れてしまったんだ、全部。今のあの人は十歳くらい。病弱な、昔の先生だ。 「ほら、起きたら朝ご飯だよ。食べたら少し散歩しよう」 「散歩なんてできないよ。僕は体が弱いから」 「それでもするの。体力つけないと!」  こうしてむずがる先生にご飯を食べさせて、散歩に連れ出す。入浴させたり、話をしたり。少しでも刺激を与えないとこの病気の進行は早いのだという。  きっかけは、些細な物忘れ。けれどそれは徐々に回数も深刻度も増していった。  先生は凄く荒れた。忘れていくことが怖いと。忘れたくないと。俺の事を、覚えていたいのにと泣いた。  俺も泣きたかった。忘れられて平気なわけがないんだ。でも……治らないんだ。止められないんだ。少しでも遅らせる事しかできなくて、治療方法も分からなくて……先生は徐々に子供になっていった。  それからは毎日、自己紹介から始まる。それはもう、数年続いているんだ。  唯一救いだったのは、ランバートの事も忘れてしまったことだった。  ファウストに先立たれたランバートは数年荒れた。でもある時を切っ掛けに嘘のように落ち着いた。まるで、縁が切れてしまったみたいに。  それでも騎士団には戻らず、自分達の身に起きた色々な出来事を本にした。  そしてそれが完成した年に亡くなった。肺炎だった。  先生は看取って……それでもランバートの前では泣かなかった。戻って大泣きして、泣きすぎて寝込んだくらいだった。「弟が先に死ぬなんて酷い!」と繰り返していた。  でももう、その記憶も感情もない。それだけは救いだったかもしれない。 「ねぇ、猫くん」 「ん? なに?」 「君はどうして、いつも僕の側にいるの?」 「え?」  それは、もう何年も同じ会話を繰り返してきた俺にとって予想していない質問だった。 「どうしてって……俺、先生の猫だし」 「人間じゃん」 「そうだけど」 「……これからも、側にいてくれる?」  寂しそうな表情でそう言われたら、嫌だなんて言えない。苦しいなんて言えない。言われなくてもいるつもりだし、そう誓いを立てた。けれどどこかでは辛くて逃げたくなっていたんだ。 「いるよ」 「どうして?」 「俺が、先生の事大好きだから」  これが全てだ。手がかかっても、苦しくても、泣きたくても好きなんだ。好きだから苦しいんだ。好きだから、見捨てるような事はしたくないんだ。  伝えたら、先生は赤くなった。そしてそっぽを向く。知っているよ、恥ずかしくて顔を見られないんでしょ? そういう所は昔から変わらないよ。  苦笑して、窓とカーテンを閉める。また、先生の記憶は消えてしまうんだ。
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