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◇◆◇
翌日部屋に行ったら、カーテンが開いていた。億劫でベッドから出たがらない先生が窓辺に立っていて、こちらを見て笑った。
「おはよう、猫くん」
「!」
今、呼んだ? 猫くんって、呼んだの?
信じられなかった。初めてだった。忘れられてからずっと、ずっと……っ!
「猫くん、泣かないでよ」
「うっ……だって先生、俺っ」
嬉しくて潰れてしまいそうなんだ。幸せなのに苦しいんだ。息が上手くできないよ。
近づいた先生はそっと頬に手を伸ばして涙を拭って、昔みたいに笑った。
「猫くんって、案外泣き虫なんだね」
「っ!」
忘れていない。忘れなかった! 昨日の事は覚えている? もっと前は?
でもとにかく涙が止まらなくて、俺はずっと泣いていた。
それから、少しずつ変化が起こった。先生は五日に一回くらいは、前の日の事を覚えているようになった。
少し笑うようになった。会話を楽しむみたいだ。
でも、昔の事は覚えていない。本当に前日くらいまでを覚えているんだ。
俺は話し相手になって、庭に出て沢山色んな事を伝えた。昔の先生だったら知っている事だけど、今は知らないから楽しいみたいだ。
そうした時間を過ごすと、四日に一回は覚えているようになった。
三日に一回。二日に一回。
徐々に覚えている時間が増えたある日、先生は真剣な顔で手に花を持って俺の前にそれを出した。
「好きだよ、猫くん。僕のお嫁さんになって」
「え?」
信じられなくて目を丸くしたら、少しむくれた。顔は真っ赤だった。目は、真剣だった。
俺達は夫婦だった。性別とかはあるけれど、そこに新しい何かは生まれないけれど、それでも夫婦だった。
でも、もう何年もそうじゃなかった。その時間をこの人が忘れてしまったから。
「冗談じゃないからね」
「先生」
またドキドキする。嬉しさと幸せが込み上げて破裂してしまいそうだった。
涙が出て、苦しくて泣いたらまた頬を拭って、慰めるみたいに額にキスされる。昔もよくしてくれたものだった。
やりなおせる? 忘れたなら、また新しく。明日覚えていなくてもまた……また!
「猫くん、泣くほど嫌なの?」
「ちが……っ、嬉し、くてね……幸せ過ぎて苦しくて、涙が止まらないんだよっ」
好きだよ先生、今も昔も、これからも。ずっとずっと、大好きだよ。
その日、別荘の庭で小さな結婚式が開かれた。
花冠を付けた俺の隣には先生がいて、執事が立ち会って誓いの言葉を述べて、キスをした。先生はすごく照れて、なんだか可愛かった。
小さなケーキと、お祝いの料理と。二人でずっと居ようと、先生は言ってくれた。
その夜は、眠るのが怖かった。
凄く幸せだから、また忘れられるのが怖かったんだ。
眠れなかった。嬉しいから、明日起こしに行って「君、誰?」と言われるのは辛かった。
結局眠れないまま先生の部屋に行って、まだ眠っている先生を見ている。静かで、こうしていると面影はちゃんとあって。別人じゃないから苦しくて。
お願い、誰? なんて言わないで。俺は貴方の猫だよ。貴方が拾った黒猫だよ。好きだって、言ったじゃないか。今も好きだよ。一緒にいようって、言ったじゃないか。
俯いて、涙が落ちたその頬を、暖かな手が触れた。
「どうしたの、猫くん? 眠れないの?」
「! 覚えてる?」
「覚えてるよ。僕の猫くん、結婚式素敵だったね」
「っ!」
ふわっと笑った人を抱きしめて、俺は声を上げて泣いた。その背中を抱いて先生はよしよししてくれた。もうそれだけで、今この瞬間人生が終わればいいのにって思ってしまった。
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