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◇◆◇
その日以来、先生は俺を忘れなかった。他は忘れたのに、俺の事だけは忘れなかった。
そして幸せな結婚式から半年後、先生は静かに息を引き取った。
葬式にはヒッテルスバッハの親族も来てくれて、皆で最後送り出した。先生はとても、静かな顔をしていた。
「先生、お疲れ様。ゆっくり休んでね」
執事と俺だけになった墓地で、俺はその墓碑を撫でて言う。思ったよりも心は静かだった。
「チェルル様」
「もう様なんていらないよ。俺は主じゃないから」
前にいた執事が病気で引退して、今はその息子。若い彼はそれでも静かに律儀に側にいて、そっと一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「ハムレット様からです」
「先生から?」
でも、先生はもう随分前に字なんて書けなくなっていた。
疑問思って中を開けた俺は、その文字を見て固まった。
「まだ症状が出る少し前、異変が現れた頃に残されたものです。遺言だと」
「っ」
そこに綴られていたのは間違いなく先生の文字だった。綺麗な字を書くのに詰めるから少し読みにくい、小さな先生の文字だった。
『チェルルへ
これを読んでいるという事はきっと僕は死んだんだね。
ごめんね、君にはきっと凄く哀しい思いをさせたよね。それすら僕は覚えていないんだと思う。君を凄く泣かせているのにそれも分からないなんて、本当に最低な人間だ。
この病気は治らない。僕の記憶は新しい所からどんどん消えて行く。哀しい事も、幸せだったことも全部。
我慢しなくていいんだよ。見限っても恨まないよ。むしろ、忘れてしまって。君を泣かせるくらいなら、不幸にするくらいなら僕の事なんて憎んで恨んでいいから。
それでもね、僕は君と出会えた人生がとても幸せだった。君と過ごした時間は宝物だった。成人できない弱い体だと言われていたけれど、君と出会える未来があったなら頑張った甲斐があった。
これだけは、疑わないで。愛しているよ、僕の猫くん。大好きだよ、これだけは本当なんだ。
忘れたくないな、この気持ち。忘れてしまうのかな? そんなの、嫌だな……』
ここでインクは滲んでいた。涙が乾いて少しごわごわした紙。そこに、新しい涙が落ちた。
俺も、愛してるよ。今でも愛してるよ。
心配しないで、先生は忘れた後も俺の事を愛してくれたよ。好きでいてくれたよ。ずっと変わらず「僕の猫くん」って言ってくれたよ。
「チェルル様。遺言で屋敷と財産は貴方にと言付かっております」
「え?」
「残りの人生に不自由はないだろうと。私も変わらず側にいさせてください」
「だって、そんな!」
「それが、残せる形あるものだからと。不要な分はラーシャ医療学園へと寄付してくれと」
エリオットも随分前に亡くなった。それでも彼が残した学園は今や腕のいい医者を多く出している。それに、先生も関わっていた。
「……全部」
「それはいけません。貴方が幸せに余生を送る事が、ハムレット様の願いです」
こんな事を整えるくらいなら、もっと沢山話をしてよ。
でも、最後の心遣いだと言われたら受け取ろうと思う。なにより俺もそう長いわけじゃない。いい年だ。
帰り道、数日前から降り出した雪で随分寒くなっていた。
「冷えるね」
「冬の始まりですから」
そんな会話をしていた時、不意に大きな音がした。
「駄目だ! 避けてくれぇぇ!」
「!」
丁度広場へと通じる坂道の途中、凍結した道で制御を失った幌馬車がこちらへ向かってきていた。
悲鳴が上がる。そこにまだ小さな子が動けないままでいた。
「!」
ここに居れば俺は巻き込まれない。でもあの子は逃げられない。
気づいたら踏み込んでいた。昔ほど早くない。足元も悪い。完全に助けられるか分からない。それでも、やらずに見ている事はできなかった。
馬車が迫る。猛スピードだ。子供まで、あとほんの少し。あと、ほんの少しだから!
庇う事はできなかった。ただ、全部の力でその子を突き飛ばした。雪の交じる地面を滑るように転がった子は危険な場所から離れられた。
ほっとした。それと同時に、衝撃と痛みとでグチャグチャになっていた。
「チェルル様ぁぁ!」
……ぽつ、ぽつ……冷たい雪が頬に触れる。
ぼやけて掠れた視界は狭くて、遠くで悲鳴が聞こえる。体の感覚がない? 声も、出ない。
あぁ、死ぬんだな……。
思ったけれど、落ち着いていた。最後に一人、救えたかな?
子供が泣いている。色んな声が聞こえる。体が重たい。もう、目を開けていられない……。
猫くん――
声が聞こえる。知っている、少し楽しそうな優しい声。
「…………に? せ…………せ?」
ふわりと頭を撫でる優しい感触。お疲れ様って、言われているみたい。
ねぇ、すごく眠いんだ。先生、膝貸して? 昔みたいに、あったかい所で一緒に、お昼寝しよう?
Fin
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