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◇◆◇
騎士団の定年まであと半年、随分歳を取ったが息災だった。
そして定年後の事も考えていた。生まれた森で穏やかに暮らそう。騎士として何十年も過ごしたから、余生は争いなどと無縁の生活をと思っていた。
ラウルもそれに賛成してくれた。「素敵ですね」と言ってくれた。まだ若い彼にとっては退屈な暮らしかもしれないと言えば、「貴方が居てくれるなら何処でも幸せです」と言ってくれた。
シウスの退団に合わせて早期退団し、一緒にいてくれることとなった。
気づけば周囲はすっかり寂しくなった。
ファウストが死んでもう五年になる。その後はバタバタと仲間が消えていった。
オスカルとエリオットはファウスト死去の翌年、早期退団した。だがまだ元気で王都にいる。身寄りのない子を三人引き取り、残った人生を大事に生きている。たまに行くと歓迎してくれるのだ。
クラウルは一年前に定年で退団し、ゼロスもそれに合わせて早期退団した。
そして今年の春、事故であっけなく帰らぬ者となった……。
カール皇帝の嘆きはあまりに深くしばらくは病に伏せり今もあまり元気はない。復帰はしているものの、代替わりを考えている様子だ。
めまぐるしく様子が変わっていく。不安定になっている中、燻っていたウェールズも怪しげな動きがあるという。頼むから何事もなくと願い、今は半年後に迫る自分の定年退団に向けて順調に引き継ぎをしている。
宰相府はキアランに任せる事とした。マーロウではやや喧嘩腰だ。本人もそれを分かっているのか、「慎重なキアランが適任」と言ってくれた。
臆病でやや後ろ向きだったキアランも恋人を得て安定している。自信もつき、発言にも張りが出た。良い傾向だ。
それでもやはり争い事は不得手だから、そこはマーロウがサポートする事となった。
順調だった。その後の楽しみに落ち込んだ気分も少しは浮上していた。これからは穏やかに過ごしていこうと思っていた。
そんな矢先の事だった。
その日、ラウルとは普通に朝を過ごしてそれぞれの仕事をしていた。
だから、それは突然すぎてまったく理解が追いつかなかった。
「シウス様、大変です!」
「なんじゃ、騒々しい」
急き込んで入ってきた隊員が息も整えられないまま蒼白な顔でこちらを見る。一緒にいたキアランが眉根を寄せた。
だが連絡にきた隊員はそんな事構っていられないようだった。
「事件が! ラウル様が犯人を追いかけて、負傷を」
「ラウルが!」
「重傷、です」
その言葉に、持っていた紙束がバサバサと床に落ちた。
信じられなかった。あの子は長年危険な任務をこなしてきた。そんな子が重傷? なぜ!
「シウス様!」
「! 直ぐに行く! あないせい!」
信じられない。信じたくない。だがそれよりも早く彼の所にいかなければ!
取るものも取りあえず駆け出した。六十近い体に鞭を打って走った。息が上がっても走る事を止められない。
そうしてどうにか辿り着いた現場で、シウスは息が吸えなかった。
そこは、小さな貸金屋の店舗だった。
辺り一面に散らばった金と、負傷した客や従業員、そして隊員もいた。
そんな騒然とする店の床に、彼は仰向けに倒れていた。
真っ赤に濡れた胸はまだ僅かばかり上下しているが、その肌は透けるように白くなり始めている。愛らしい口元は真っ赤に濡れている。そして腹から胸にかけて、大きく深く抉れたように傷ついていた。
「あ……」
声が出ない。何も考えられない。現実だと受け止めたくない。これは何かの悪夢で、目が覚めれば全てが嘘で隣であの子が目を覚まし、笑いかけてくれる……。
そんな、悪夢であってほしい。
でも現実は何も変わらない。あの子の死は、変わらない。
だが、僅かに指先が動いた。声はなくとも呼ばれている。そんな気がして転げるように駆け出した。
「ラウル!」
名を呼んで頭を抱いた。彼の瞳からは命の光は薄れている。でも震えながら僅かに手を上げる。その手を握り、温もりを移していくが、ライトブラウンの愛らしい目にはもうシウスは映らないようだった。
「シ……っ」
「しっかりせよ!」
訴えるように小さな音を紡ぐ唇から、こぽりと命が溢れる。その音だって耳を近づけなければ届かない程弱い。触れた胸から腹の辺りがぐにゃりと沈む。大事な臓器の大半を失ったのだろうと感じる。
もう、助からない……!
せめてここにエリオットがいてくれたら、一縷の望みを描けたかもしれない。駄目だとしても、してやれる事があったかもしれない。
クラウルが生きていてくれたら、もう少し長く現役を続けてくれていたら、そもそも事件に巻き込まれるリスクを減らせたかもしれない。
ファウストがいてくれたら、事件そのものを起こそうなんてバカはいなかったかもしれない。
だがもういないんだ。もう……誰も!
「……っ、…………ぅ」
微かな声が名を呼ぶ。泣きながら、不安そうに。
泣かないでおくれ、愛しい子。花のように笑う其方が好きだ。最後の時、そんな不安そうにしないでおくれ。
流れる涙は止まらない。だが、見えていないだろう。声だけ、頑張ればいい。大丈夫だと……憂えることなどないのだと、そう……思っていてほしい。
「大丈夫、何も心配はない。其方は安心してよいのだよ」
必死に声を絞った。穏やかで柔らかく、眠る間際に紡ぐ愛の言葉のように。
それでも声は震えた。でも、言わなければと思ったのだ。心配させてはいけない。人一倍優しく、頑張ってきた子なんだ。最後の時に、苦しい思いなんてさせたくない。
血に濡れた茶色の髪を撫で、笑みを浮かべた。握る手に僅かに力を込めた。いつ途切れるとも分からない息が少しでも長く続くようにと願って。
「頑張ったの。もう、よいのだよ。帰ろう、森へ。ちゃんと連れてゆくから」
それでもラウルは哀しげに泣いた。お願い、最後までそんな風に泣かないで。其方の安心した笑顔を見たいのだ。
「私もちゃんと生きてゆくよ。其方は何も案ずることはない。あの森で……終の家で過ごそう。あそこには友もおる故、寂しくはない。春にはコブシの花が咲く。また、共に見よう」
ほんの少し表情が緩まった気がした。それだけが救いのようで、シウスは必死に言葉を絞った。
「覚えておるかえ? 婚礼の儀を行った場所を。私は今も思いだして幸せな気持ちになる。其方と夫婦の誓いを立てて祝福さたことを嬉しく思う。其方もそうであろう?」
とても小さく、手の中の指が動いた。それが答えだと感じる。
「土地を離れてもあの森は我らの故郷じゃ。そこに帰ろう。またコブシの花を見に行くのだよ。私の好きな花を其方も好きだと言ってくれただろ? 料理は其方が教えてくれると約束したのを覚えておるかえ? ちゃんと側にいるから、だから!」
フッと瞼が落ちる。力が抜けた体がずしりと腕に重い。手が、かくんと落ちた。
「ラウ、ル?」
手をすり抜けた大切な命が零れていく。
涙が止まらなかった。止めようとも思わなかった。
名を呼んで欲しい。愛らしい声を聞きたい。あの森へ帰ろうと約束したではないか。もう住む場所も決めて、二人で見に行ったではないか。どうして若いこの子が先に取られて、老いたこの身は残されるんだ!
「あ…………ぅ………………」
大きな塊が喉に引っかかって声が出ない。痛くて、苦しくて……いっそ止まってくれと願う。それでもこの心臓は動いている。生きる者の勤めをまっとうせよと言わんばかりに。
「――――――っっっ!」
それは魂から発せられる悲鳴であり、慟哭であり、叫びだった。
喉が裂けるほどに声を上げた。人目など気にしている余裕などない。何度も何度も声を上げて名を呼んだが、この目が開く事はなかった。濡れた胸に顔を埋めたがそこに生ける者の音はない。僅かな熱さえも消え失せようとしている。
残酷だ、なぜ共に終われぬ。なぜ生きている。こんな老いぼれをいかして、若いこの子を奪う理由はなんだ!
長かった……長かったんだ、恋人としても夫婦としても。人生の大半を共にしたのだ。悲しみも苦しみも、喜びも幸せも一緒にしてきたんだ。なのに何故、今は一緒にいられぬのだ!
この問いに答えなどでない。分かっている、残されたランバートの慟哭を知っているのだから。
それでも、約束したのだ。あの子の最後に生きると誓ったのだ。それを違えたら、あの子はきっと悲しむだろう。
事件はなんてことない、強盗だった。
犯人は脅しのつもりで爆弾を持ち込み、それを爆発させると脅して金を奪おうとした。そこに、近くにいた騎士団員数名とラウルが突入したのだ。
最近こうした強盗が多発し、警戒していた最中の事。刺激しないよう慎重に事を進めていたが、犯人は子供を人質に取っていた。
一瞬の隙をついて人質解放までは順調にしていたが、犯人が暴れて乱闘となりラウルが取り押さえた。その時、粗悪な爆弾が運悪く起動してしまったのだ。
それでもラウルは異変に気づき声を上げて遠ざかる事を叫んだ。そのすぐ後、爆弾が至近距離で爆発したそうだ。
幸い火薬の量はそれ程多くはなく大規模な犠牲は出さなかったが、犯人はこれによって飛散。ラウルも腹を抉られ既に助けられる状態ではなかった。
事件から数日後、しめやかに行われた葬儀の後であの子はとても小さくなった。手の中に収まる壺の中に全て入ってしまうほどに。
土葬が主流ではあるが、シウスも直ぐにこの場を離れられない。残りの引き継ぎを急いで行っても一ヶ月はかかってしまう。その間にあの子が憐れな姿となってしまうのは辛い。
何より、棺一つを抱えて東の森まで行く事は現実的ではなかった。
歴代最高の宰相と呼ばれたシウス・イーヴィルズアイは事件後一ヶ月で騎士団を去ったのだった。
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