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夜が更け、暗闇が満ちる。肌寒さに身をこわばらせた。今頃は左衛門は新しい側室の元にいるのだろう。説明の時間はとうに過ぎている。彼がこの部屋に来ないということは承知したということだ。
「僕の役目ももう終わりだ」
寂しがり屋な、お梅さんの夫はまだ1人じゃない。あの世でもし会えたら、新しい女性をつけてしまったことを謝ろう。僕は暗闇の中に歩み入った。
「お梅!」
何年も呼ばれた名前に振り返った。左衛門が息を乱して縁側に立っている。誠実そうな瞳に焦りが見えた。
「お梅……」
「左衛門さん」
表情を歪めて、整った髷をかき乱した。
「もう行くのか?」
「え?」
「山へ戻るのだろう。子狐」
僕は目を見開き、苦しげな左衛門を見つめた。唇を歪めて、彼は笑みを作る。
「君の正体は初めから知っていたよ。土砂崩れの時までにはなかった傷があったんだから」
彼は左手首を指した。
「君がお梅に化ける理由を探ろうと思ってた。何かを盗もうとしているのかとか」
「違います。私は」
「うん。君はいつだって純粋で素直で……優しかったよ。化けてるのに全然悪さをしない」
ふふふと堪えるように笑う姿に泣きたくなった。
「あのときの恩返しをしたくて。お梅さんの代わりにあなたを」
幸せにしたくて……涙が滲み、息が苦しい。呼吸ができず胸を押さえた。左衛門は優しく微笑んで頷いた。その微笑みはお梅さんにそっくりで、更に苦しい。
「うん」
「でももう僕の体は限界で姿を維持できないのです。だからおそばにはいられません。ごめんなさい」
「謝らないで。俺は君がいてくれて幸せだっんだから。今まで寂しがり屋な俺の隣にいてくれてありがとう。君の家族にも悪いことをしてしまった」
涙が溢れて、僕は尻尾を振った。
「家族には二度と会えないと覚悟しています」
「そうか」
「はい」
人の臭いがついた僕はもう森では受け入れてもらえない。残された短い時間をどこかで過ごすだけだ。
「じゃあ最後まで俺のそばにいてくれないか?」
「……無理です。もう人間には化けられない」
もう耳も生えてきていた。じきに狐の姿に戻るだろう。
「お梅の代わりはいらない」
「……はい」
「狐としていてほしいのだ。俺の飼い狐として家族にならんか?」
耳を疑うような申し出にクゥーンと鳴いて、彼の足に擦り寄ると、大きな手が包み込むように毛並みを撫でた。
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