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でも、もう終わりにするって決めたから。
私は前に進む。
「もう、話すことはありません…奥様を大事にして…娘さんも…」
これも、偽りのない私の本心。
高杉さんは少しの沈黙の後「あぁ…うん、わかったよ」と、苦笑いを浮かべて返事をした。
私たちはビルから出て、駅までの道を肩を並べて歩いた。
これが最後、これで…最後…
弓張り月にはまだ足りない半端な月夜の、頼りない月明り。
薄っすら雲間からその風貌を見え隠れさせて、より一層貧弱に見えた。
「…じゃあ、これからはただの上司と部下ということで…」
「はい…」
私たちは数秒見つめ合う。
熱の籠った高杉さんの視線に、また流されそうになって慌てて顔を背けた。
すると、その背けた顔の先に鬼の形相の女性が立っていた。
「あなた!」
高杉さんの奥様だ。
一番会いたくない人との遭遇に、私は全身から血の気が引くのを感じた。
高杉さんも同じであろう。いや、それ以上か…
「あ…この女は会社の部下で…残業が長引いて、遅くなったから駅まで送っただけで…」
いつも冷静で余裕のある高杉さんは、そこにはもういなかった。
そこにいたのは怯えた目の、貧弱な男。
あぁ、この顔も私は知らない…
結局、私はこの人のこと何も知らなかったんだ…
まるで月の裏側を見てしまったように、気まずくなって、気持ちが一気に冷めていくのを感じた。
奥様と対峙することだけは避けたい。だが、賽は投げられてしまっている。
この窮地、どう切り抜けようか…
私は営業スマイルで「いつも主任にはお仕事上で大変お世話になっております」と、奥様に深々と挨拶をした。
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