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柏原征次は、コールマンの椅子に深々と身体を沈め、ウッドデッキの柵の向こうに目をやった。
視界に広がる緑を夕陽が染め、赤い空の彼方に黒い鳥の群飛が小さくなってゆく。
ゆらりと立ち昇る煙草の煙が途切れた先に、上弦の月が寒々と浮いていた。
上弦の月。
次のはじまりのための準備の時期って意味だったか。
何かの本に書いてあった。
今夜の俺におあつらえ向きか。
柏原はサイドテーブルのミックスナッツをひとつまみ頬張ると、奥歯でぼりぼりと噛み砕きハイボールで流し込んだ。
デッキからつながるキッチンでは、田所満子が料理に精を出していた。
排気ダクトから漏れ落ちる肉と魚の混ざった匂いに腹が鳴った。
三杯目のハイボールに口をつけたとき
「征次さん、できたわよ」
満子の声に、柏原は腰を上げた。
そのとき、椅子の脚とサイドテーブルの脚が絡んで、テーブルが横倒しになった。
「おっと!」
パリンと小皿が割れて、ナッツがころころとデッキに散らばる。
柏原は舌打ちし、スリッパの足でミックスナッツをデッキの下に払い落とした。
デッキの支柱を支える斜面をナッツが転がり落ちていった。
ダイニングテーブルを彩る料理からほわっとした香気が漂っている。
ジビエ独特の硬い匂いだ。
厚みのあるステーキにナイフを入れ
「意外とやらかいな」
柏原はソテーした熊のモモ肉を口に放り込んだ。
咀嚼する柏原に「臭い?」
満子が訊くと、柏原は顔を左右にふり白ワインに手を伸ばした。
「ぜんぜん臭くない。ネギと白菜も美味いよ」
鼻詰まりの声で答え、ワインをグビリと飲んだ。
「猪より食いやすいな」
「よかった。生肉はけっこうな臭いなのよ」
満子は安心したようにフォークで肉を刺した。
「麓の猟師さんに分けてもらったの」
「へえ。こっちは俺が釣ってきたやつか」
ふっくらとした鮎の塩焼きだ。
「そうよ。美味しく焼けたと思うけど」
「どれどれ」
一口噛むごとに鼻を抜ける香気と、腑の苦味がなんとも美味い。
「やっぱ天然物はうまいな。鮎の香りは餌の苔の香りなんだよ」
「そうなの?」
「ああ。だから天然と養殖じゃ香りが違う」
ふうーんと満子は鮎を噛みながら、香りを探るように目を閉じた。
「さ、飲んで」
柏原が白ワインを注ぐ。
「ありがとう」
ワイングラスを傾ける満子に、柏原はほくそ笑んだ。
さあもっと飲め。人生最期のワインだ。たっぷり味わえよ。
独りごち、肝心の話題を切り出した。
「満子。例の部長に呼ばれた件……大丈夫だったのか?」
「え? うん、心配なかったわ」
「そうか……」
満子がワイングラスを傍に置き、両手を伸ばして柏原の手に重ねる。
「大丈夫よ。心配しないで」
「ああ、それならいいんだが……」
柏原は、およそひと月前の会話を思い返していた。
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