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「相談があるの……」
満子の深刻な面持ちに、柏原は嫌な予感がした。
満子は食材の専門商社で経理課長を務めている。
創業以来独立独歩で経営してきた老舗だ。
しかし、世界的な新型感染症の流行によリ、経営危機に陥っていた。
飲食店へのダメージを満子の会社もモロに食らったのだ。
「それで……会社に身売りの話があるみたいで、そうなったら二重帳簿を続けられなくなるのよ……」
「本当か? 身売り? どこかの傘下に入るのか……?」
「うん、来期からの計画みたい」
「それは不味いな……」
「身売り先と経理を統合する過程で、決算書類も全部チェックが入るわ」
「……どこなんだ? 相手は」
満子が顔を左右にふる。
「わからない。課長の私までは降りてこないわ。候補は何社かあるみたいだけど」
「まいったな。相手が公開企業なら株価にも影響するしな。直前まで公表はしないか……」
どうすべきか、この日は方策が出ないままだった。
ところが、ある日満子から『総務部長に呼ばれたわ』と、メッセージが入った。
総務部長は経理も兼務している満子の直属の上司だ。
とはいえ、部長とは名ばかりで、満子が処理した書類に判子を押すだけだという。
実質、経理は満子が一人で仕切ってきたので、裏帳簿も自在に作れた。
裏金はおよそ三億円。その金で別荘も持てた。
それが経営統合で発覚するかもしれない。
満子とは五年前に仕事を通じて知り合い、すぐに不倫関係になった。
婿養子で妻に頭が上がらない柏原にとって、従順な満子は最高の女だった。
三年前にうっかり孕ませたが、文句も言わずに堕胎してくれた。
素直な性格で満子の肉感的な身体は捨て難かったが、金の切れ目が縁の切れ目。
もし横領が発覚しても、自分は横領には関与していない。安全だ。
今のうちに損切りしておくべきだろう。
満子には今夜死んでもらう。
自殺に偽装すれば、横領の発覚を恐れての自死だと誰もが思うはずだ。
柏原はわざと明るい声でいった。
「よし、せっかくだから飲もう」
ワインボトルを満子に差し出す。
「そうよね」
満子が微笑んでグラスのワインを飲み干し、空のグラスを向ける。
柏原がボトルを傾けたとき、突然目の前の満子がぐらりと揺れた。
ボトルの先から白ワインがドボドボとテーブルを浸す。
「あれ……?」
揺れたのは満子じゃなくて自分だと気づいた。
掌からボトルが滑り落ち、酸っぱいものが胃の奥から込み上げる。
前のめりの上半身を支えるようにテーブルに両手をつくも、脳がぐらぐらして手元がおぼつかない。柏原は勢いのまま料理の皿をひっくり返し、テーブルに額を打ちつけた。
朦朧としながら上目遣いで満子を睨んだ。
満子は能面のように無表情な眼で自分を見下ろしていた。
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