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20:05
バスを降りると彼がいた。
ここまで来るために待っていたバスが思いのほか各駅停車過ぎたせいで、もともと予想していた時間をゆうに超えてしまった。その都度、遅れそう、とメッセージで送信しては、気にしないでゆっくり帰ってきて、の文字が送られてくる。そのたびに申し訳なくなりながらも、彼が待つ私の家に向かっていた。車窓さんは長い時間運転していたのか、疲れ切っている顔と、何と言っているのかわからない案内を口にする。窓から見える景色で場所を判断するしか方法がなかった。
「次で家近くのバス停着くと思う!」
メッセージを送信する。
「待ってる」
待ってるとはどういうことなのだろうか。バスの停車ボタンを勢いよく押した。早く彼に会いたい。仕事の疲れはいつの間にか、期待に変化し心からの元気が体中に広がっていた。
バスはゆっくりとブレーキをかけている。先ほどから見慣れた景色を進んでいたが、一番見慣れた景色が広がっていた。とまったバスは気抜けた音を立てて扉が開く。遅くはなったものの、家に帰れると安堵しながら荷物を持ってバスを後にした。
「おかえり」
彼がいる。目の前に。家にいるとずっと思っていた彼が目の前にいる。いつもと少し違う服装。彼になりに頑張ったのだろうなと感じさせる程度には着飾って目の前に立っている。
「え!家にいてもいいのに!」
「んー」
何か言いたげな顔をしながら、左手で私の荷物をつかむ。そのままの勢いで彼が私の重たいはずのすべての荷物を持ってくれた。反対の手が私のほうへ差し出される。
「一緒に、帰りたいなって思ったから」
私は左手で彼の腕に抱きついてみた。そう来ると思った、そんな顔をしながら私のほうを見る。うれしそうな、迷惑そうな、歩きにくいと言いたげな顔をしている。
「帰ろう!」
ちゃんと手をつかんで、一緒に家に向かっていく。訪れると思っていなかった幸せな時間を、彼の顔を眺めながら、心から温かいものを感じながら歩いていく。
家の玄関を開けた。一瞬で香ってくるおいしそうな香り。彼は私の荷物をゆっくりと大切そうにソファに置いた。ご時世的にも、礼儀的にも、私は洗面台へ向かって食べる準備をしていく。そこに置いといた部屋着はきれいにたたまれていた。掃除までしてくれていたらしい。私が収納するところにきちんとすべてのものが配置されている。彼の生活力には本当に感謝しかなかった。
テーブルには、ハンバーグと、ピーマンの肉詰め、スープに白米。どれも手作り感があるのに、お店で出て来そうなほどおいしそうだった。椅子に座る前に冷蔵庫からビール缶を二個取り出してくる。冷蔵庫のいらない表示機能の時計には、20:05と書いてあった。
「たべようか」
椅子に二人、目の前の料理に向かって、大きく声を出してから、私はすぐさまハンバーグに手を伸ばす。
「うんまー!」
「よかった」
彼は私の顔を幸せそうに見つめている。私も幸せな口と、幸せな目と、幸せな耳でこの空間すべてを感じている。一緒にこの時間を過ごせるうれしさ。
「旗!!フランス!!ふらんすー!!」
「やっぱりすると思ったよ」
「フランス今度行ってみたいね!」
「新婚旅行、フランスにする?」
新婚、その言葉に一度止まってしまう。彼とはまだ婚約をしていない。まだ、恋愛の段階にいる。いつかこの人と結婚して、幸せな家庭を築き上げて、一緒の人生を歩んでいきたい、そう思ってはいたが、いざその言葉を耳にすると思考が停止してしまう。
「これ」
隠し持ってきたのは、小さな箱だった。
「5年以上こうして、俺といてくれてありがとう。いろいろ仕事とか変化が大きくて、始めのうちは会えてたのに今じゃ合いにくくなったけれど、こうしてたまに過ごせる時間が、君といる時間が、俺にとってすんごく幸せだった。
だから…」
「結婚!」
「先に言うなって」
「結婚する!!」
「しような。俺としてくれる?」
「する!!」
箱からは私の薬指にぴったりとはまる指輪だった。きれいに光っている。彼はもう一つの小さい箱から指輪を取り出して薬指にはめていた。私も真似してはめてみる。
「結婚したみたい!」
「まだ、気が早いな…」
これから先は、もっと幸せな時間が待っている。目の前の料理はいつの間にかなくなっていた。彼の手料理、彼からの幸せな言葉、私の家で、私の空間で、彼と一緒の幸せ。これからは、二人の空間で、二人の時間で、二人で過ごせる幸せ。三人に増えるのなら、三倍の幸せが待っている。
「明日にでも、親に挨拶しに行こ!」
「仕事休み取っといたから、行けるよ」
言うと思ってた。そんな顔を彼はしながら、笑っている。
これから先の人生が、楽しみに感じてきている。
君との時間が今まで以上に、幸福な時間だと確信した。
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