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「おはよう。どうしたの急に」  枕元に置いてあるスマートフォンが小刻みに耳障りの悪い音を立てている。 まだ起きるつもりのない時間。鉛のように重たい体をゆっくりと動かして、Bluetoothイヤホンを手に取った。大体このバイブレーションの時は電話と、まだ寝ぼけている頭の代わりに体が認識する。 「もしもし!」  鼓膜が破裂しそうな勢いの一声目を聞く。朝から体力有り余ってるのだろうか。その声で俺の脳も回転を始めていく。やっと窓を開けて寝ることのできる時期になってきた。先ほどまでは気が付くはずのない外界の音が情報として鮮明に処理が開始されていく。車のタイヤの往来、人々の笑い声、ごみ収集の独特なモーター音、烏の目覚まし、自転車が猛スピードで走り抜けていく音。 そして、小学生たちの笑い声。 「朝早くに電話かけてくるなんて珍しいじゃん。何かあった?」 「ううん! 特に何もないんだけど、声聞きたくなったから。ダメだった?」  大体いつもならかけてこないだろう時間に電話をかけた上に、特に何もないと答えるときは、何かあるとき、そう長年の彼女との付き合いで分かってきている。 「あれ、そういえば、今日、仕事じゃなかったっけ?」 「今日は夜勤」 「明日はー?」 「明日? ちょっと待って。確認するから」  まだ電灯をつけていない、遮光カーテンを閉め切っている。微かに零れ入る太陽の光は頼りがいがない。スマートフォンの画面が明るすぎて最小の明るさに設定しながらカレンダーを確認した。仕事と祝日の文字以外は記載されていない一か月の予定表。明日の日付をタップする。何も文字は入っていない。機械から、何か予定はありますか? と聞かれる程度には本当に何も予定が入っていなかった。 「明日は休み。そっちは? 」  言っている途中からイヤホン越しに物音が聞こえてくる。ジッパーを開く音、歩き出して何かを羽織っているらしい布がこすれる音。 「そろそろ、仕事行かなきゃ」 「仕事前に電話してきたの?」 「そうだよ。だって声聞けてなかったからさ。この頃。」  靴を履く音がする。荷物を持って扉を開ける音がする。生活音駄々洩れのイヤホンを片耳に俺も重たい体を動かし始めてみる。夜から仕事なのにもかかわらず、いつもとは違って寝れる気がしない。家のすぐそばにとまったトラックのエンジン音が耳障りだった。 「仕事無理すんなよ」 「無理してないよ、座ってパソコン目の前にして、ただ文字打ってるだけだもん。特に何も力仕事とかしてないし」 「だからって、いつも帰ったら、リビングで着たまま寝てるのは疲れてる証拠だと思うんだけど」 「それは…、仕事だもんしょうがないじゃん」 「そういうとこだよな」 「だって…」  聞こえてくる音は家の外と似たような音に代わっている。人のしゃべり声、店からはみ出てくる音楽、人の歩く音、信号が変わったときの独特なアラーム。どこまで電話をつなげていくのかいささか気になり始めたが、彼女の気が済むまではつなげといてあげよう。俺は静かにポットに水を注いでいた。 「ちゃんとご飯食べてる?」 「食べてるよ。多分」 「多分ってなんだよ…。 …作りに行ってやろうか?」  耳から聞こえる音の主として聞いている彼女の口から、たぶん言葉にならない音が漏れたのだと思う。息を吸い込んだにも近い単音だった。読み取れる感情はただ一つ。 「…いいの!? 本当に?! 」  このこの言葉が答えだった。おもちゃ屋に行って欲しかったぬいぐるみを買ってもらえた子供のような、大きな声とともにすべての喜びを音に乗せている。ここまで喜べる彼女の可愛さ。いつも感じてはいたけれど、久しぶりにストレートパンチを受けた気がした。 「そんな喜ばなくても、いつでも作ってあげるのに」 「だって! 作ってくれるの全部おいしいんだもん!」 「何が食べたい?」  ちょっと待ってね、そう言い残して彼女は歩きながら、声を出しながら悩んでいる。カレーだのオムライスだの子供が好きそうなものが並べられていく。となると、お願いされるのは、今声に出していないもので子供が好きそうな料理。肉の塊を焼いてソースをかけるあの食べ物。 「ハンバーグがいい!」 「了解。」 「明日作って!!」 「え? なんで明日?」 「仕事休みなんでしょ? だったら一緒に食べれるじゃん! 私明日仕事だけど、残業しないで帰るからさ。明日一緒に食べたい!」 「わかった。合鍵使って家に入っていい?そしたらそっちで他にも保存できるやつ作っとくから」 「いいよ!というより、私の家にしよって言おうと思ってたから」  そろそろ会社に着く頃合いだろう。スマートフォンの時計は8:52を指している。世のほとんどの会社は9:00スタートだったはずだなと、昔の自分を思い出している。今は夜に働いているが、朝に出勤し仕事をしている人たちが神のように思えてくることがよくある。ちゃんと働いていることのすごさ。彼女もまたその中の一人であることに、尊敬してやまない。 「そろそろ仕事だろ? 電話切らなくて大丈夫かい?」 「うー、そうなんだけど、切りたくない」 「明日会えるんだから。 頑張っておいで」 「…わかった。頑張ってくるね! 仕事終わったら連絡する!」 「はいよ。行ってらっしゃい。」  イヤホンから等間隔で単音が何回か流れた後、無音になった。何かもの悲しいような寂しいような感情が押し寄せてくる。明日のソースはどんなものにしようか。ハンバーグの間にはチーズを入れてあげよう。そんなことを考えながら、いつしか沸きおわっていたポットからインスタントコーヒーにお湯を注いだ。
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