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何も知らずに過ごしてきた。
渚が今この時も、私の身を案じていたこと。
何事もなく、平穏に過ごせた1日がどれほど尊く思っているのかを。
“君がいない人生なんて意味がない”という言葉を後に聞く日がくることを、この時の私はまだ知る由もなくて、青春の1ページほどにしか思ってなかった。
好きだと自覚したあとも、きっと“愛してる”まで届いていなかったのかな。
それとも、少しずつその形を作っていたのかもしれない。
目の前にいる天使は、この後に待ち構える結末に備えるべく身を引くことを噛み締めて日々を過ごしていたのに、私は相変わらず鈍くて、高校生活はこの幸せを続けられるものだと信じて疑わなかった。
真実を全て知ったあとだから、この瞬間を大切にしていたことを改めて胸に沁みた。
脚の長い彼の歩幅が小さくしてくれていることも、取り繕う姿をみせない優しさも、毎日の送迎も。
襲撃に備えた送迎をしてくれていたことも、このあと私と別れるつもりの彼が、忙しい時間を縫ってでも一緒にいようとしてくれた気持ちが、痛いほど今になって伝わってくるのだ。
他の学生が当たり前に過ごせる時間が、彼にとっては奇跡みたいに貴重な時間だった。
測り知れないほど、多忙な学生時代を送っていたのだろう。
留学するため、白桜御の単位をキープ出来るよう勉強をしながら、資格取得やホテル運営の手伝いを満遍なくしていた。
この時点では“ホテル経営”を念頭に置いていた。
彼の夢は“カタギの人生を歩む”ことであり、決して“青柳組のトップ”を目指していたわけじゃない。
私の生半可な正義感をかざしたがゆえに、彼を地へ落としてしまったのだ。
夕闇に消えてしまいそうな笑顔を向けていた彼が歪むと、目の前はタイル張りの浴室へと場面が変わった。
程よい温度のシャワーを身体に浴びていた。
タオル1枚を胸元に置いてあるだけの心許ない姿で。
バスタブの中。
彼は自身の革ベルトで手首を拘束して、酷く青ざめたまま私を見つめる。
そして、私の意思と関係なく『キスして』と彼に懇願していた。
私の一言で、これほどに傷付いた彼を見たのは、この時が初めてで、その後にもこんな表情は見たことがなかった。
あの時が最初で最後かもしれない。
『ごめん・・・ごめんね、乙葉っ』
鼻血が噴き出したまま、彼は力無く静かに言う。
今なら分かるよ。
ヤクザの息子だと告げられずにいた彼の、やりどころのない怒りや悲しみを、誰にも預けられずに苦しかったこと。
彼の葛藤は、私には測り知れない壮絶なものだった。
彼は今でも時々言うのだ。
“目が醒めたら、隣に乙葉がいないかもってたまに思うんだ”
彼の心を埋めきるほどの愛を注いでも、彼の不安は尽きない。
私がいなくなるわけないでしょ?と笑って返すと、決まって言う言葉がある。
“君がいないと、俺の生きてる意味がないから。
もっと強くなって、君たちを守るから、そばにいて”
彼は、私がいなくなるのをいまだに怖がっている。
それでも、その恐怖と闘いながら私と一生を歩む誓いを立てた。
2度と離れないと、固く約束して。
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