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奥様は誘拐されました
なんでこうなったのか。
護衛として付けていたはずの男たちをすり抜け、命よりも大切な2人が攫われた。
堅く握り締めた手は、窓ガラスを力強く叩いていた。
ジンと熱く響く痛みは、体の内側から湧くアドレナリンによって掻き消された。
漆黒の闇の中、新しいリゾート開発が発表されたその日の帰り道に起きた出来事だった。
妻は身重だった。
少し膨らんだ丸みをおびた腹部は、締め付けの少ないワンピースによって、妊婦だと一見にして分からないようになっていた。
安定期に入ったのは昨日だったのだ。
悪阻は辛そうにしていたが、ここ数日になってその辛さが和らいでいたようで、夕方にはお散歩できるほどの元気さを取り戻していた。
そんな中での誘拐だった。
28階のエレベーターホール前。
港街を見下ろせる夜景が美しい大窓には、ホテルの支配人がうっすらと映っている。
激情を顕にした表情を浮かべ、鳥羽色のオールバックにした髪をくしゃりと解した。
冬の海に浮かぶ月のような冷たさを宿した青い瞳は、メラメラと怒りを宿している。
「乙葉が何処にいるのか、もう分かっているよな?」
品の良い上質なスーツを纏った男は、そう吐き捨てると、傍に控えていたであろう蛍光ピンクの髪を耳にかけた、女顔の男がにこやかに応えた。
「勿論。
でも良いの?こんな大事な時期にパーティー抜け出して」
ふさふさの睫毛を瞬かせ、アシンメトリーの前髪が揺れたあと、紫水晶の瞳が大きく見開いた。
ピンク髪の男の首に、細くも力強い手が食い込んだからだ。
「パーティーをしてる場合だと思ってるのか?」
我を失いかけた主人に、女顔の男は眉根を下げて肩を竦めた。
「もう誘拐は何回目だと思ってるのよ。
流石に彼女も慣れている頃でしょ。
それに、そろそろ連絡が来る頃」
矢先、ピンク髪の男の胸ポケットに入ったスマホが震えた。
碧眼が赤く充血してしまう前に、彼の手を離させることが出来たのは、彼女を無事保護したという報せを受けたからだった。
ホッとしたのか、目の前にいる主人はそばにあったベンチに腰掛け、はぁっと深くため息を吐いていた。
まるで初めての出来事のような彼の態度だが、もう数えきれないほどこんな日常を過ごしている。
こちらとしては、もう慣れたことなのに。彼は命がいくつあっても足りないと言わんばかりに、愛する人の身を案じていた。
そんな彼は、昼間はホテルの支配人として、貴公子のような笑顔を振り撒き、VIPな来賓方をもてなし、世界に名を馳せるホテル&リゾート施設を所有している。
しかし、本当の姿は、上質なスーツの下に銃を下げ、関東の悪魔と名を轟かせた青柳組会のトップを担う。
ヤクザとしての彼は、密かに警察と手を組み、世直しを決行している。
世の中にばら撒かれた麻薬や覚醒剤などを取り締まり、その源となる工場や生産地を解体、または暗殺している。
世界各国にある生産地やバイヤーたちを駆除した結果、買い手側の怒りを買い、青柳組はあらゆる組織から命を狙われることとなった。
青柳 渚を殺害しろ。
闇の世界に通づる合言葉となった。
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