2,僕(私)の発見

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2,僕(私)の発見

人影のまばらになった職員室で石垣先生は自分の机に向かって座り、ペットボトルのお茶を一口飲んでから、担当するクラスの夏休みの課題に目を通した。 先生が課題の一つとして出したのは、「僕(私)の発見」というテーマだった。 その概要は 「夏休み中、(あるいは少し前でも可)に、君が発見したことを書きなさい。あくまで君にとっての発見で、世の中ですでに知られていることでもいい。 コペルニクスの地動説のような壮大なものから、朝顔の蔓は右巻きだったとか、ヒマワリは花が咲いてからは太陽の方を向かないとか、自分の名前は姓名判断によって4歳の時に改名されていたといった、個人的なことでも良い。 君にとっての最新の発見であればいい」 というものだった。 クラス30名全員が「僕(私)の発見」のレポートを提出したが、例として挙げた植物に関する私的発見や自身や家族に関する個人的な発見を義務的に書いたものが多く、発見という抽象的なテーマが書きにくかったのだろうかと、石垣先生は首を傾げた。 そんな中で印象に残ったのが、上原里流(さとる)の「地球は甘くしょっぱい葉に包まれている」という作品だった。 それによると、果てしない海は、道明寺(桜餅)の葉っぱのように地球を包んで、甘辛のバランスを保っている。 面白いと言えば面白い発想だが、単に奇をてらっただけという見方もできる。 石垣先生は、里流と雑談という形でこの作品を書いたいきさつを訊いた。 おやつの水ようかんから彼の好物の道明寺へと飛んで、地球が葉っぱに包まれているイメージへと飛躍したのだという。 道明寺はともかく、里流が彼の母の話として、昔母が小学生の時クラスの担任の女の先生の家の庭に連れて行ってもらい、そこに咲くアジサイの花を見た、その時一緒にいた男子が「梅雨に雨が沢山降るのは、アジサイが雨乞いをしているからだ」と言ったというところに、石垣先生は予感めいたものを感じた。 その女の先生が、現在も他の小学校で教師をしている彼の叔母を彷彿とさせたからだった。 現在50代の叔母は、広い庭のある家に住んでいる。 電話で尋ねたところ、およそ30年前に教えているクラスの女子2名、男子1名に庭のアジサイを見せたと答えた。 アジサイが雨乞いするというユニークな発想が心に残って、ずっと記憶しているのだという。 里流の母親、妙子は結婚前は雨宮という名字だった。 奇遇というべきだろうか。 石垣先生は、叔母の教え子の息子が受け持ちのクラスにいるという不思議な縁を心の中で噛みしめて、自分にとっての最新の発見はこれだろうと呟いた。
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