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「虹音さん、温泉いきません?」
この島には24時間無料で入れる温泉がいくつもあって、何を思い立ったのか、理市は有無を言わさず私の手を引いて部屋に戻った。
勢いに押され水着を着込んで波打ち際にある岩で囲まれた天然温泉に向かった。
理市が目の前でバサっとTシャツを脱いだ。しなやかな筋肉がついた美しい背中。骨格が整っているんだと思った。
『着痩せするタイプだね』
「虹音さんは…着膨れするタイ…」
バシィと背中を叩いたら、理市は大袈裟に痛がりながら「褒めてるのに」と笑って温泉に入っていった。
ゆらゆらと揺れる水面が月に照らされ幻想的。静かな波音をBGMに、2人だけの話し声が密やかに響いていく。
「どうしてここに来たんです?皓のところに遊びにきただけじゃないですよね?」
両手に顎を乗せ、2人並んでどこまでも続く凪を眺めた。核心をつくような質問に、私はなぜだか笑った。
よく知りもしない、弟の友人というこの彼に、なんだか無性に話を聞いてもらいたくなった。きっと彼の持つ柔らかな雰囲気と穏やかな声に、癒しを求めたんだと思う。
『私ね、逃げてきたの』
10歳も年の離れたその人は、私のことを可愛い可愛いと言って持てるすべての愛情を注いでくれていたと思う。次第にそれは狂気になって、息苦しさを感じるようになった。
買い物をするにも、遊びにいくにも、彼の顔色を伺ってばかりの日々に疲れ、これまでの贈り物をすべて置いて別れを告げたのだ。
「指輪も?」
『え?』
薬指を突かれた。
「日焼けの痕が残ってる」
結婚の話も出ていた彼。長い間つけていたものだから、意図せずできてしまった指輪の日焼け痕が本当に嫌だった。
『よく見てるね。…これ、本当に嫌で。こっちに来てから少し焼けたから薄くなったんだけどね。早く消えてほしい』
キッパリとした私の物言いに、理市は少し驚きながら目尻を下げた。
「全く引きずってないんですか?」
『嫌になったらもうダメよね。でもちょっとストーカーみたいな事されて、ここに逃げてきたの。少し時間が経てば落ち着くでしょ』
「ヤベェなソイツ。帰ったら家の前とかにいたりして」
『理市が迎えに来てくれるんでしょう?そのまま送ってもらうわ。ほら、そしたら安心』
「仰せのままに、お姉様」
昔話をしたり、未来の話をしたり、開放的な温泉に浸かりながらする会話は私の心を軽くした。
『聞き上手』
「ずっと聞いててあげますよ」
帰り道で、これから漁に出るという山さんにバッタリ遭遇した。
「おっ、えらいいい雰囲気。2人お似合いやなぁ」
深夜とは思えない遠慮のない声で、私たちの間を「ちょっとごめんよ」とふざけながら通り過ぎていく。
「虹音ちゃん、また魚持ってってやるからな〜。兄ちゃん頑張り〜」
よく分からないエールを理市に送り、肩をバシッと叩いて山さんは港へ走っていった。
「いい人ですね」
『うん。島のみんなから愛されてる感じ』
今ごろ皓は何をしているのか、きっと遊び呆けているはずとか、そんなことを喋りながら坂道を登ると家が見えてきた。
「…ほら、こっち…」
『え…』
背後を車が通り過ぎていく。
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