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同窓会で過去一好きだった男と再会する話
大人になると時間の流れというものはどうにも駆け足で進んでいき、段々と量を増していく記憶は水彩画に水を垂らしたように細部の輪郭が滲んでいく。
なんだかあっという間だねと笑いながら、失った記憶の輪郭を指で愛おしく撫でる私達の時間は、確かに十年という少なくはない空白のはずなのに。
角にヒビが入った画面の向こうでは、カップルYouTuberがお互いの好きなところをひたすら言い合う企画が進行していた。実はこの人勇敢なんですよ〜!と猫撫で声で惚気る女性に、日常の中で何が起きると勇敢さに惹かれるのだろうかと、温度の低い感想が頭をよぎった瞬間ほぼ無意識に親指で次の動画へとスワイプしていた。
深夜零時半。和泉晴夏は事務仕事で散々ブルーライトを浴びて披露した眼球で、今度は無感情にひたすらSNSを眺めていた。
以前は虚しいと感じていたこの行為さえ、今は何とも思わない。
段々とただ騒いでいる画面を呆けて眺めるだけの作業になってきた頃、ヴヴッと指先に伝わる通知のバイブレーションで遠のいていた意識が手元に戻ってくる。
『今資料作り終わった』
『晴夏、もう寝てる?』
ゆーいち、と書かれた人物から送られてきたメッセージに指を伸ばす。
『おつかれ もうすぐ寝るところ』
『だよね また電話できなかった ごめん』
『なんか大きい案件が始まったんでしょ? がんばれ』
祐一は晴夏が今お付き合いをしている男性で、出会いは婚活用マッチングアプリだった。平凡なOLの晴夏に対して、彼は一つ年上の二十九歳で大手文房具メーカー勤めの好青年。アプリで彼からあなたが気になりますとアクションが来た時は大層驚いたが、お互いの趣味がラグビー観戦で一緒だったから、ということだった。
『来週にはフィックス予定だから、それ終わればまた時間できるから会おう』
『楽しみにしてる』
——ちゃんと楽しみだよ、私。
それからは何度かやり取りとデートを重ね、アプリで出会ってから三ヶ月で私達は恋人同士となった。
スイスイと彼と交わした過去の会話履歴を振り返っていく。彼はちゃんと「好き」や「会いたい」を言葉でくれる人。付き合い始めて半年になるが、ほど良い温度感の恋愛ができていると思う。
彼の、忙しくてもこうしてこまめに連絡をくれるところが好きになった。
でも彼の仕事の話になるとやたらカタカナを使うところと、初めてお祝いにくれた珈琲店のドリンクチケットが七百円じゃなくて五百円だったところが、ちょっとだけ、どうという訳じゃないけれどちょっとだけ、好きじゃなかった。
燃えるような恋は疲れる。仕事に明け暮れる日々で心の体力はすっかり衰え、恋愛という不確かで曖昧なものに逐一心を揺さぶられることが億劫に感じている現状に多少の罪悪感を抱いてはいるが、しかし同じように考えている人だって少なくないはずだと開き直ってもいる。
スープのようにじっくり煮込んだ恋じゃなくてもいい。でも、ちゃんと急須で入れた日本茶みたいな温かい恋はしていたかった。
画面右上を確認すると時刻は既に一時を回ろうとしており、そろそろ寝るかとあくびを噛み締めていると画面がパッと切り替わった。
着信:安田玲奈。高校時代の友人からの電話だった。たまにSNSで反応し合う程度の距離感となった彼女からの電話に思わず首を傾げる。電話が切れてしまう前にもそもそと応答ボタンを押した。
「あっ、もしもーし? 晴夏?」
「なに電話なんて珍しいじゃん。どしたの」
彼女の背後からはざわざわとした喧騒が広がっていて、すぐにそこが居酒屋だと分かった瞬間、私も大人になったんだなと頭の片隅で感嘆の声を漏らした。
「いやね? そいや最近連絡ばっかで全然会ってない奴いるなって思って。だから高校のクラスメイトで同窓会しようと思ったんですよ!」
「はぁ」
「晴夏ってたしか副委員長だったよね? あれ、委員長が長田くんで合ってるっけ。長田くんにも連絡しとくからさ〜、二人でいい感じに話まとめてくんね?」
「……え? 長田くん?」
「えっ委員長長田くんじゃなかったっけ」
「いや、合ってるけど……私機種変で連絡先消えちゃった」
「あれぇそうなん? じゃあ送っとくわぁ〜、よろしくお願いしあーす!」
「えっ、いやちょっと」
きゃははと一人楽しそうに笑う彼女は明らかに多量のアルコールを摂取している様子で、なのにプツリと切られた後にしっかりと彼の連絡先が送られてきた。
長田。長田浩輔。
私は未だ、彼への恋を超える気持ちに出会えていない。
「あっち〜! 頭おかしいだろこの暑さ!」
窓の外では既に蝉が強烈な声で夏を叫び、焼け付くような陽射しが一直線に教室の中を熱し続けていた。三年六組、窓際の前から三番目。そこが晴夏の席だった。
晴夏もニキビができた額に汗を滲ませ、小学校の頃から使って角が剥がれかけている下敷きでパタパタと仰いでいる。青い下地に白で星座が敷き詰められた少々子供っぽいデザインだったが、すっかり愛着が湧いて長年使い続けていた。
「おはよー。うわなんか、長田くんって日焼け止め塗らないの? 今気付いたけど肌くっろ」
「そんなん朝塗っても学校着く頃には汗で流れ去るわ」
長田は晴夏の一つ前の席で、今年百八十を超えたらしい長身が机に収まらず、授業以外はいつも窓に背中を向けるように椅子を回し座っていた。
晴夏の机は彼の右肘置きで、彼よく意味もなく晴夏の筆箱の中をカチャカチャと掻き混ぜている。
「あっそうだ! お前ジャスミンティーって好き?」
「ジャスミンティー? なんで?」
長田は半袖のシャツを肩まで捲り上げると、三年間でヨレヨレになったスクールバックから一本のペットボトルを取り出す。びっしりと汗をかいたそれは新発売のジャスミンティーだった。
「なにそれ、おまけついてるじゃん」
「そーなんよ」
ペットボトルには小さな袋が付いていて、透明なビニール越しに猫のシルエットが見える。その猫は深い青色のようだった。そのシルエットには見覚えがある。
「えっそれ星座猫?」
「やっぱ知ってる? 長田なら知ってんのかなーって思ってさ」
長田がペットボトルから袋を取り出し晴夏に寄越してくる。そこに入っていたのは近頃流行り始めた星座猫というキャラクターのキーホルダーで、各星座をモチーフにしたゆるい猫のキャラクター達でシビアな神話を描いたギャップが人気の作品のグッズだった。袋の中の猫は布を腰に巻き手にはこんぼうを持っており、その姿からすぐにオリオン座の猫だと分かった。
「コンビニで見かけたんだよ。かわいくね?」
「これ色んな猫のタイプあったの? オリオン猫だけ?」
「いや結構な種類あったよ。なんと俺オリオン座分かるからオリオン座のにしてみた」
「そういうこと? てかオリオン座は大体みんな分かるっての。おおいぬ座とかうみへび座とか見つけてからドヤりなよ」
「俺がそれ分かったら逆にびっくりじゃない? っつかそもそもそんな星座、存在を知らないわ」
そう眉を顰めながら晴夏の机の上にペットボトルを置いて、彼はあちぃあちぃとまた筆箱弄りを再開しながら斜め前の席の男子と会話を始めた。突然会話を放り出された驚きに彼にぐいっとペットボトルとおまけを返す。
「えっ、でこれが?」
そうお礼を言うと彼はパッと目を見開き、返されたペットボトルを再び晴夏の机の上に戻す。
「だからこれやるって」
「え?」
彼は袋からオリオン猫のキーホルダーを取り出すと、ボールチェーンを外し勝手に晴夏の筆箱に付けていく。大きく不器用な手はその作業すら上手くできずもたついていた。
「俺このキャラ知らないしジャスミンティー飲めねぇもん」
「は? じゃあ何で買ったの」
どうにか付けることができたキーホルダーを満足げに指でつついてから、眉尻を下げて笑う。
「なんかこの星座猫見つけたら長田の下敷き思い出して。この猫知ってんのかなー、好きなのかなーとか考えてたらつい買っちった」
ぽたりと一粒、顎から汗が机に垂れた。
「…ばかじゃん」
汗ばんだ手のひらに必死に力を込めてペットボトルを開封すると、少しだけ親指の皮膚が痛くなった。「じゃあ、いただきます」と喉が渇いているふりをして、一気にジャスミンティーを喉に通していく。
急激に熱を帯びたこの体を冷やすには少しぬるいが、そんなことはもう関係なかった。
「おーおー、いい飲みっぷり」
「んまい」
苦手だったこの独特の苦味と渋みが、甘い勘違いを起こす心に良く効いた。
今日もまた最高気温を更新したらしい。
夜になっても街は涼しくなることはなく、満員電車には混沌とした人の匂いが隅々まで充満していて、晴夏は少しでも風上に近づこうと必死に顎を上げて冷房からの風に顔を埋めた。
何もない一日だった。朝起きて、電車に運ばれて、仕事して、また電車に運ばれて。もともと刺激を求めるタイプではなかったが、それでも随分とつまらない人生だと何周目かになるコマーシャルを眺めていた。
乗り換え駅に着き、サラリーマンや大学生達と一緒に開いた扉から一斉に溢れ出る。以前から思っていたが、この行列は魚群のようだと思う。集団の流れに身を任せ、押されるままに前へ進む自我のない魚。
潮の流れに合わせふよふよと歩いていた時、カバンにしまっていたスマートフォンがヴヴッと震えメッセージの着信を知らせた。どうせ公式アカウントの定期配信だろうと目処をつけながらも画面をつけると、見慣れない人物からのメッセージだった。
『おさだ:長田です。久しぶり』
「えっ長田くん……!?」
晴夏が驚いて名前を二度見している間に、企業が無料配布しているキモ可愛いキャラクターのスタンプが続けて送られてくる。
「うわー……スタンプのチョイスが長田くんっぽい……」
晴夏は邪魔にならないよう端に避けてから、深呼吸してメッセージの画面を開く。
『和泉晴夏です。久しぶり。友達追加しとくね』
いきなりアカウントを追加するのは迷惑だっただろうか。敬語だとよそよそしいかもしれない。いや先に敬語を使ったのは彼の方だし。
五回書き直した。一つのメッセージの短い文面を考えるだけなのにここまで緊張したのは久しぶりで、カーソル位置を上手く動かせないことがやたらと焦燥感を煽る。
『同窓会の話聞いてる?』
返事はすぐに来た。
『玲奈でしょ?昨日聞いた』
『せっかくだからしっかりしたのやりたいよな 会場がっつり借りて』
『いいね! クラスの全員呼ぶやつ』
『そうそう でも俺全員分の連絡先知らない』
『私も 知る限り連絡して、そこからまた連絡してもらう?』
『うーん』
そこで既読が付いてから先程のように次の返事が来なかった。どうするか考えているのだろうか、焦る心を落ち着かせるように視線を意識的に天井へ外すと、そこの時計に書かれた数字は降りた時刻の十分後を指していた。
「やばっ!」
あと五分で乗り換えの電車が出発してしまう。晴夏は携帯電話を鞄の内ポケットに入れ慌てて階段を駆け上がっていると、再び内ポケットで通知のバイブレーションが響く。それに少しだけ足を回す速さが狂って、次に出すのが右足か左足か分からなくなってしまう。ギギギと壊れたロボットのように前後に揺れていると、鞄の中のバイブレーションが止まっていないことに気がつき慌てて取り出し画面を見る。長田からの電話だった。
「もっもしもし!?」
『わりー文字打つのダルいから電話しちゃったんだけど……今外? 平気?』
「あ、うん、でも大丈夫だよ!」
『そう? メンツ集めなんだけどさ、どいつの連絡先知っててどいつが知らなくてとか確認したいから、どっかで飯でも食いながらって思ったんだけどどう?』
「いいけど、長田くんって今どの辺にいるの?」
『うわったしかに! 俺は東京いるけど、和泉どこ?』
「あっ私も東京だから大丈夫!」
『おぉそっか良かった。じゃあ俺の休みとか送るから確認しといて』
「はーい」
そう簡潔に話すと長田は「そんじゃね」と電話を切ってしまった。階段の真ん中で片足を上の段に乗せたまま、通話終了の画面を眺める。
その時頭上でガタンゴトンと電車が発車する音が轟き「あ」と声を漏らした。のそのそ階段を上がりホームを移動し、冷房が効いた待合室で腰を下ろす。
次の電車まで二十分。
恋を思い出すには充分すぎる時間だった。
『K大の過去問集なくした』
クラス替えした時ノリで交換したものの一度も掛けることのなかった長田の電話番号から、始めてショートメッセージが送られてきたのは十九時過ぎ。
晴夏は彼が今いるらしい近所のファミリーレストランへテキストを届けに行くと、彼は隅の席に教材を広げていた。
「長田くん、持ってきたよ」
「……マジで持ってきてくれたんだ」
「え? ……って、あるじゃん過去問!」
走って火照った体を手のひらで仰ぎながら机を見ると、そこには彼がなくしたと言っていたテキストがごく自然に置いてあった。
「……ごめん」
カチカチとシャープペンシルの芯を出しては、コツ、と中に押し戻す。やけに静かな彼の態度に晴夏は怒るというより動揺の気持ちが大きい。
「な、なに? どしたの」
「なードリンク奢るからさ、ちょっと付き合わね?」
「……はぁ」
夏が終わり、秋が来た。お互い冬物の制服に衣替えをし、3年生となる二人は本格的な受験の時期を迎えていた。
晴夏は先日滑り止めの大学から合格が出て、一安心しながらも本命の試験に向けて勉強中。長田は晴夏以上に日々教科書とノートに齧り付いていて、先日志望大学の一回目の入試を受験。
結果は、不合格だったらしい。
「……お前知ってた? 安田、M大指定校で受かったらしいよ」
「あー、らしいね。あの子受験の為に生徒会とかやってたし」
「……俺落ちたんだよね、あそこ」
晴夏はハッと大きな瞳を見開いて、口を噤む。
長田が机に拡がった消しカスを集め指で練り合わせ始めて、晴夏はその乾燥した指先へ視線を落とした。
いつも呑気に笑っている長田を相手に初めて味わう、空気が一瞬で冷たくなる気配。
「俺、教室だと安田にちょいちょい勉強教える側なんだけどなぁ」
「……そうだね」
「……テ、テストだって、多分、正直俺の方が順位結構上じゃん」
「……そだね」
「いや性格悪いこと言ってんの分かってる。安田はちゃんと考えて先に動いたんだから偉いよ」
長田は纏める消しゴムが無くなって、何も書いていないところを消しゴムで力任せに擦っては真っ白の消しカスを作り、それを真っ黒な消しカスの塊に付け足していく。
ゴシゴシと、ひたすら白いノートを擦り続けた。
「……でも、でもさぁ、俺、落ちたんだよなぁ」
長田が耐えられないように頭を掻き毟った刹那、ノートにポタポタと透明な雫が零れ落ちた。ビッシリと書き殴られた計算式にじわりと水滴が広がり、文字を滲ませていく。
長田は「あー、はは、ちょいまち」と言ったまま顔を上げない。
晴夏はただ、パチパチと何度も瞬きを繰り返していた。
窓の外は深々と雪が降り、窓枠に薄い水溜まりを作っている。暗い夜空に白い雪がふわふわと舞う景色は、今の状況に酷く似合わない。きっと遠くに見えるカップルであろう二人は小綺麗に降り始めた雪に愛でも囁きあっているのだろう。
楽しそうに笑い合っていた。
「……なんていうかさぁ」
「……」
「やってらんないよねぇ」
常に晴夏より高得点を叩き出す彼は、とりあえず生徒会に入り普段のテストは平均程度の安田に負けた。点数ではなく要領で負けたのだ。
そんなこと分かっている、これが受験戦争なのだから。
「ふっ……でも、やんなきゃなんだよなー」
晴夏の投げやりな声に小さく吹き出した彼は、少し鼻にかかった声でそう返す。
「でもやってらんないのは変わんないよ」
「でもこれが受験っつってな」
「うわっやだやだこんな堂々巡り」
二人はお互いの目を見て言葉を交わし、弾けるように笑い出した。
隣の席のおじさんが何事かと振り返ってきたけれど、それもまた何故か面白くてぷくくと口を抑える。
長田も同じように眉尻を下げて笑いを堪えていた。
凍えきっていた空気が、二人の笑い声でゆっくりと解けていく。
「いやほんと、和泉呼んで良かった。正直滅入ってた」
「えー?」
「お前と喋ると元気になるわ、ありがとな」
長田は少しだけ目元を赤くして、いつもの明るい笑みを浮かべる。その顔に晴夏はぽかんと口を開けた。
――知らなかった。あんな話の後でも、心臓はこんなんになるのか。
「……な、にそれ、私がアホみたいじゃん」
「実際俺の方が点取れると思うけど?」
「うわ受験で性格歪んでる! 末期だ!」
その後はすっかり炭酸の抜けたソーダを飲みながら、彼の筆記用具を借りて一緒に勉強を始めた。焦る彼の気も済んで帰路に着いたのは、一時間後だった。
待ち合わせのカフェには二十分前に着いた。我ながら完璧だと思う。
あまり気合を入れすぎるのもどうかと思いシンプルなロングスカートを履きつつ、勇気を出して袖がないトップスを選んだがどうだろう。
今回はお互いのアクセスや諸々を検討した結果、結局二人の地元で落ち合うことになった。
「和泉だよな? ごめん待った?」
小さな駅の改札前で髪を弄りながら待っていると、長田の声が耳に届く。
デニムに白のTシャツ、紺のジャケットを羽織った彼は晴夏を見つけて小走りに駆け寄ってきた。
高校で出会ってから十年。初めての私服姿。
「ううん、全然」
「んじゃあ、行きますか」
二人は挨拶もそこそこに、駅からすぐのカフェへ向けて歩き出した。下町と言えど土曜日の十五時の人通りは多い。子供や家族、お年寄りまで多くの人が行き交っている。その中を二人並んで歩く自分達は、傍目には恋人同士に見えるのだろうか、なんて彼がつけているシトラス系の香水が心を惑わせた。
「和泉も大人になったなぁ〜。ぱっと見で気付けなかった」
「長田くんもね。今何してるの?」
「仕事? しがない銀行マンよ」
「そーなんだ! 私はチョー普通の事務員さん」
「お互い働いてて偉いわー」
「ほんとそれね」
ほどなくしてカフェに着き、窓際の席へと案内された。
長田はアイスコーヒー、晴夏はソイラテを注文する。
「さて本題先に片づけますかぁ。お前クラスの奴らの連絡先、どれくらい知ってる?」
「私機種変して一回消えたからあんまりなんだよね」
「あーそういうのあるよな。俺もそんなにだから、連絡回してもらうしかないなこりゃ」
ずずず、と運ばれたコーヒーを啜る、ストローが氷にぶつかって、カランと涼しげな音を鳴らした。
それから二人はお互いの携帯電話を片手に持ったまま、つい思い出話に花を咲かせる。
あいつ覚えてる? 就職しないでバンド頑張ってるんだって。あの子は税理士になったらしいよ。俺大学の時一回会ったんだけどさぁ。あの先輩さ、転勤で今アメリカにいるんだって。
長田は十年経っても昔と変わらない笑い方をしていた。晴夏も昔と変わらない声で話し続けた。
十年。十年経って容姿や年齢は変わっても、話せば何一つ変わらないあの時のままの二人で、ダラダラと過ぎていったはずの時間はあっという間に巻き戻される。
「あの二人結婚したらしいよ。知ってた?」
「えーそうなん!? 全然知らなかったわ」
晴夏はその言葉にうてい、視線で掠めるようにコップを持つ長田の手を確認する。
——指輪、してない。
「長田は? 彼氏とかいんの今」
「えっ? あー……うん、まぁ一応?」
晴夏はくるくると指先で髪の毛を遊ばせながら、へへ、と恥ずかしそうに笑った。心臓がぎゅっと小さくなって指先の体温が少しだけ低くなるような感覚。
「へーそうなんだ、いいね」
「うん」
「俺も来週さ」
「うん?」
「結婚指輪買いに行くんだ」
結婚指輪、買いに行くんだ。
長田はにかっと歯を見せて笑う。
「今付き合ってる彼女とこの間婚約届出してきたんだ。俺もついに結婚組ってわけよ」
窓のすぐ近くをトラックが大きな音を立てて走り去っていく。隣の席のカップルは昨日テレビで流れていた映画の話を大声でしている。耳は喧騒でいっぱいのはずなのに、長田の声だけがクリアに聞こえてしまった。
やだなぁ、やだやだ、何もショックなことなんてないでしょうに。
「……へーそうなんだ。いいね」
「おう。指輪のデザインめっちゃ悩んでてさ〜、あっ和泉ドリンクおかわりする?」
この店は机に店員を呼び出すボタンが設置されていないので、二人で店員と目が合うのを待っていると、斜め前の席に座る二人の男女の高校生が見えた。
セーラー服と学ラン。見覚えのあるその制服は長田と晴夏の母校のものだ。土曜日だったが、授業か何かがあったのか二人とも制服姿で、机にはドリンクバーのコップと教科書やノートが広げられていた。
「ここテスト範囲だっけ。やばい全然解けないよー」
「さっき教えてあげたじゃん」
「お姉さんのノート持ってきてる? あのめちゃ分かりやすいやつ」
「あー家だわ……え、じゃあ、ウチに移動する?」
「えっいいの? 行く!」
十年前の自分達と同じ姿をした二人が、屈託なく笑い合っている。
十年経った二人は、それを静かに見つめていた。
カフェにはドリンクだけで二時間半居座り、気まずくなった二人は店を出る前にお互いデザートを一つずつ注文した。
窓の外は少しずつ日が傾き始め、空が燃えるような赤に染まっている。二人はやっと店の外に出るとぐいと背伸びをした。
「結局関係ない話して終わった気がする」
「まぁ久しぶりに会ったし仕方ないっしょ。会場とかこっちで決めていいなら適当にやっとくわ」
「めっちゃやる気満々じゃん」
「俺こういうの好きなんよ」
夕方に向けて車通りが多くなった大通りで信号待ち。他に待っている人はいなくて、二人は赤信号をぼーっと眺めていた。その向こうには駅が見える。
——もうすぐこの時間が終わってしまう。
心がふわふわして、暖かくて、でもだからといってどうなるわけでもない、通りすがりの運命が再び歩いていく足音が聞こえる。
昔、この人が好きだった。何がってことはないけど、何だか好きだった。
何となくずっと気になってた。大好きってほどじゃないけど、ちゃんと好きだった気がする。
「あーそうそう和泉、高校の時なんだけど」
「なに?」
「お前はどうだったか知らないけどさ」
「うん」
信号はまだ赤色に光ったまま。
「いやまぁなんつーか、今更なんだけどさ」
「だからなにって」
「俺、お前が好きだったんだわ」
晴夏は思わず勢い良く長田を見ると、長田は晴夏を見て「わはは」と笑った。
こういう時、もっと良い感じの風が吹いたりすぐに信号が青になったりするものじゃないのだろうか。信号はまだ赤のまま、風で髪が揺れることもない。
現実なんて、こんなもん。
「……まぁ、私もだけど」
「え、まじすか」
「……まじっすね」
「……あらまぁ」
「あらまぁ」
そこでやっと空気を読んだ信号が青に変わる。
「あ、靴紐解けた」と彼が座り込み「俺蝶々結び下手でさー、すぐ縦結びになんの」と話始める。「最後巻く方向間違えるとなるよね」と返事をした。「そうなん? 知らなかった」と返ってくる。
あぁ、十年か。やはり私達の時間はたしかに十年が経っていた。
この人はもう誰かのもの。私ももう誰かのものだ。
きっとこんな会話、学生の頃はこうやって流せなかっただろう。
大人になった。
私達は確かに、大人になった。
「えー俺プラネタリウムなんて初めて」
「私もかも」
十七時。晴夏は祐一と共に小さなプラネタリウムに来ていた。
売店で先に買った星座が掘られたピンキーリングを眺めながら、順番待ちの列に二人で並び渡されたパンフレットを眺める。
「俺星座とか全然分かんないんだけど、晴夏は結構詳しいの?」
「うーん、どうだろう」
ポケットの携帯電話が震え画面を確認すると、元クラスメイトが集合写真を送ってきてくれた。長田が手配した会場は笑えるくらいロマンチックな場所。
小指に嵌めた指輪に小さく並ぶ、七つの星を見つめる。
「私も、オリオン座くらいしか分かんないや」
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