硝子とターコイズ

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硝子とターコイズ

 今日は憂鬱な、母の誕生日。  煌びやかな蒼の衣装を纏った母が、どっかの高級ホテルの会場で、俺の知らないお偉いさんたちとパーティーをする日。そんな母の凜々しい後ろ姿を、画面越しに見続けていたこともある日。  幼い頃の俺は、母と自分の似顔絵を描いて、健気にもそんな母の帰りを待っていたこともあった。けれど、少し図体がでかくなればそんなことは無意味だと嫌でも気づく。母に必要なのは、こんなガキのプレゼントではなく、お偉いさんとの繋がり。汚い似顔絵を描く子どもではなく、ご機嫌を伺う権力者。それに気づいてからは、俺は母と関わることは諦めるようになった。  テレビ画面に大きく映る、母の携えた青い石を眺める。  家じゃ見たことのない優しい笑顔と、照明に照らされギラギラと輝く胸元の宝石を一瞥して、すぐに消してしまう。左手を擦りながら、暗い部屋で俺はさっさとベッドに潜り込んだ。  この世界の人は皆、体に石を持っている。  肌から露出するように現れるその石の価値で、その人そのものの価値が決まる。石の大きさやその希少さ、光を反射する美しさ、そんなものが本人の価値そのものを決めていた。俺の母親の石は、胸に輝く大きなサファイア。美しい母によく似合う、深い色をした青色の宝石は、「貴族の青」だとか、「海の女王」だとか、そんな名前でよくメディアに取り上げられたりもしている。  そんな美しい宝石を持つ、美しい女性から生まれた俺の石は、左手の甲に生えたターコイズだった。不透明で独特な模様を持つ俺の石は脆く、ひび割れたような黒い模様は光を反射する輝きもなく嘲笑の対象だった。昔、母は小さい俺の左手をじっと見て、深いため息をついたことがある。それだけで、俺の石の意味は十分だった。  俺の居場所は家の中にはなく、かといって学校にあるはずもなかった。互いの石の価値をクラスメイト同士で品定めするような環境で、俺の石は下を見て安心したいだけの奴らにとっての格好の餌食だった。  そんな地獄みたいな環境に、一筋の光が差した。転校生がうちのクラスにやってきたのだ。転校初日にだけ見せた三つ編みの、地味そうな女の子。彼女には、石がなかった。 「何で石がないの?何かの病気?」 「事故じゃないの?怪我で失くしたとか?」  周りは好き勝手に言いたいことを言って、根掘り葉掘り聞き出そうとする。彼女は笑ったまま、大して答えはしなかった。ただ、彼女の石がないのは生まれつきらしく、けれど彼女はそれをなんとも思っていないようだった。てっきり服で隠れて見えない位置にあって、見られたくないか何かで誤魔化しているのかと皆が思った。が、体育の時間に着替えをじっくり見つめていたガーネットの女子によれば、本当に彼女には石がないらしいのだ。  初めは同情的だったクラスメイトも、やがてはその気味の悪さに遠巻きに見るようになった。石がないなんておかしい。自身の価値を示すものがないなんて、と。当たり前のものがないと、目に見えて分かる得体の知れなさを抱えた彼女を、誰もがターコイズよりも下だと思ったらしい。  俺を笑っていた奴らの標的も、やがては彼女に変わっていった。まるで魂の大事な部分が欠けているのだと言わんばかりに、皆が彼女を蔑んでいった。  それでも彼女は、最初の頃と全く態度を変えなかった。何を聞かれてもニコニコと応じていた彼女は、机に消えろと落書きされようと、雑巾を投げつけられて掃除当番を押しつけられようとも、一切反論しなかった。そんな態度だから余計に、彼女は自分の気味の悪さを助長させた。文句があるなら言えばいいのに、と勝手なことを言うあいつらを気にも留めず、教室を箒で掃除し、窓を雑巾で拭いて丁寧に日々を暮らしていた。  そんな彼女に、俺は少なからず感謝をしていた。クズだと思われるかもしれないが、クラスという数少ない居場所の中で、最下位のレッテルを抱えることの息苦しさは、経験したものにしかわからない。家にも居場所のない俺はなおさら、耐える以外の選択肢がなかったから。  転校生の彼女ならきっと、家族が助けてくれるはずだ。きっと前の学校でも、石がなくていじめに遭って、それで学校を変えたのだろう。ならまた、逃げればいい。いずれ逃がしてくれる優しい家族を頼ればいい。それまでは、退路すら断たれた俺の身代わりにでもなってくれ。  ……そんなことを願ったから、俺はきっと罰が当たったんだろうな。  夏休みが終わって少しした後、彼女は一つの変化を携えて教室に入ってきた。今まで見下していた、ペリドットとガーネットの女子二人が彼女を見た瞬間、驚いたような悲鳴をあげた。 「え?え!?愛衣ちゃん、それって本物!?」  あっという間に彼女は取り囲まれて、俺は一瞬、何が起こったか理解できなかった。男子も女子ももてはやすような声音で彼女に代わる代わる声をかけて、ようやく、彼女が石を持ってきたんだと気がついた。それも、皆が手のひらを返すような、極上の石を。  10分か、もう少しかかっただろうか。ようやくいつもの席についた彼女の姿を、横目で確認する。彼女が大事そうに手を添えていた首元には、ペンダントみたいなチェーンと台座のついた、透明な石があった。小ぶりだが、教室の蛍光灯の光りを反射して綺麗に輝いていた。 「それ、絶対ダイヤだよね!?すごいね!」 「大げさだよ、だって、こんなに小さいんだよ」 「ダイヤって、芸能人とかお偉いさんとかにしか発現しないんだよ!?絶対将来有名人じゃない!」 「なんでそんなチェーンとかつけてるの?ダサくない?」 「……生まれつきのものじゃないから、ね。急に落っことしちゃったら、怖いし」 「何言ってんの?取れるわけないじゃない」  昼休みになれば噂も広がり、宝石の質も上質な3年の先輩まで見に来る始末だった。それでも、彼女は態度を変えず、むしろそうして囲まれることに戸惑っているようにさえ見えた。そりゃあ、彼女に取っては石ころ一つで、クラスどころか学校全体の見る目が変わったように感じるんだろう。先生さえも、彼女に対して敬語を使う始末だった。  その石に見合ったプライドはないのかよ、と心の中で嘲っていると、聞こえていたのか後ろにいた、アイオライトの男子が俺の椅子を蹴ってきた。 「……てことはさあ、うちのワーストストーンは藍野くんに逆戻りって訳だ?」  ニタニタと嘲笑うようにでかい声でそう言われて、俺は振り返りもせず小さく舌打ちをした。無視されたのが気に入らなかったのか、今度は肩を殴りながらそいつはどこかへ行ってしまった。隣で見ていた彼女の取り巻きが、こちらを見て笑っているのも聞こえないふりをした。 「ダッサ、そりゃあターコイズなんてダサい石、恥ずかしくて見せらんないよね」 「そう、かな……私は綺麗だと思うけど、トルコ石って」 「あいつに気ぃ遣わなくっていいんだよ?ダイヤとターコイズなんて、比べるまでもないじゃん」 「アイツって親はすごい人なのに、ほんと残念だよね」  ほんの少し、俺を庇おうとしてくれたらしい彼女の言葉はあっという間にかき消され、彼女は俯いて口を閉ざしてしまった。もう慣れっこだし、どうでもいい。親はすごいのに、息子の俺は生きてるだけで恥さらし。あの人が、彼女の石のことを知ったらどう思うのだろう。養子にもらってこようとか、考えるんだろうか。席替えをするように、家族も交換してくれればいいのに。  きっと、彼女なら上手くやれる。あの人の隣に立って、どこぞのお偉いさんとかと一緒にテレビカメラの前に堂々と立てるだろう。そう思って、チャイムが鳴って一人になった彼女をチラリと見やる。猫背っぽい、だらしない姿勢のせいで前髪が顔にかかり、鬱陶しくも顔は見えなかった。制服の襟元に石が隠れれば、昨日までの彼女と何も変わりやしないくせに、遠く感じて仕方なかった。そんな彼女が、ふっと気づいたように俺と目が合う。 「あの、私は本当に、綺麗だと思ってるんだ。君のトルコ石」  ぱち、と音を立てたそれは、脳内に火花が散るような感覚だった。  熱さに似た痛みが、神経を焼くように鋭く、俺を苛立たせた。手を口元に添えてこっそりと、誰にも聞かれないように囁いた彼女の首元に光る、安っぽい輝きを放つ小さな石飾りが、どうして彼女に崇高な価値があると思わせたんだろう。昨日までの、何一つ反論もしない、情けない彼女とも俺とも、何も変わりやしないくせに。  彼女の優しさにつけ込んで、仲良くしてもらえば俺の立場も少しは変わったかもしれない。そんな下賤な考えが、よぎらないわけでもなかった。それでも、彼女が綺麗だと指さしたトルコ石は、ふるふると小さく震えてそれを拒んだ。 「調子に乗ってんじゃねえよ、どうせ偽物のくせに」  つい、口走った言葉は確信を突いたつもりはなかった。生まれつきのものでもないくせに、急にとってつけたように出てきた生まれたての石に、同情されるのは我慢ならなかった。母親を待って長い夜をどれだけ過ごしても耐えられてはきたが、授業が始まる直前の、ほんの1分。その1分がどうしようもなく俺の肺を握りつぶしてきた。握りつぶされて漏れた息が、そんな雑言を引きずり出した。  え、と一瞬目を丸くして、驚いたような顔を見せた彼女と初めてちゃんと目が合う。真っ黒な髪と同じ真っ黒な目が、後ろの窓から差し込む光で揺らいだ。覚えているのは、そんな彼女の凍り付いた表情だった。  その日の夜も、あの人は帰ってこなかった。彼女のことを話してみようかと、散々悩んで寝不足気味な俺の深夜3時は、特に意味を成さなかった。怠い足取りで、いつもの通学路を一人で歩く。相変わらず重たい教室の扉を開け、さて隣の席は一体どれだけの人に取り囲まれているのかと思えば、教室には一人も人がいなかった。代わりに、彼女の席には花壇から引き抜いてきたばかり、と言わんばかりの根っこと土のついた花が飾られていた。 「……は?」  視界に飛び込んできた思いがけない情報に、頭がついてこない。ひょっとすると、俺の席に置こうとした奴が間違えたのか、とさえ考えるほどだった。クラスの奴らはどこに、と見渡したとき、渡り廊下の方が異様に騒がしいことに気づく。  近くに行くと、渡り廊下の窓にはびっしりと人で埋め尽くされていて、何やら好き勝手に騒ぎながらこぞって下の方を見ていた。様子が見えないので、俺は階段を降りて奴らの視線の先を確かめに行く。胸騒ぎがした。 「こら、こっちに来ちゃいけない。教室に入ってなさい」  そう俺を制止する先生の後ろにいたのは、倒れた女子生徒だった。乱れたあの長い黒髪の隙間から僅かに、赤いものが地面に流れていたのも見えた。無造作に投げられた手足をそのままに、この曇り空の下でひなたぼっこの昼寝、のわけがない。なのに俺は、自分の目で見たものを信じられなかった。  先生らに強めに背中を押され、校舎内へと戻される。渡り廊下は相変わらずみっちりと人で埋まっていて、あそこに倒れていた人が人だから、先輩とか知らない先生とかもいたみたいだった。程なくして警察も来たらしく、そのうちに人だかりは散り散りになっていった。  教室に戻っても騒ぎは収まらず、例の宝石持ち達が代わる代わる、べらべらとお喋りを続けていた。聞きたくなくても嫌でも耳に入るその話は、やっぱり彼女のことだった。 「ねえ、なんで愛衣ちゃん、死んじゃったわけ?自殺?」 「らしいよ~。やっぱダイヤつけてる人にしかわかんない苦労とかあったのかなあ」 「そういや、あのダイヤ、偽物だったらしいよ」 「ええ!?偽物?うちらを騙してたってこと?」  偽物、という言葉に俺はぎょっとした。ひょっとして、自殺の原因は、自分の言葉だったんじゃないかと思ったからだ。散々彼女を追い詰めたのはこいつらだろうけど、それでも、ギリギリのところで耐えていた彼女に、トドメを指したのは俺の一言だったかもしれない。そう考えると、背中に冷や汗が伝っていった。  どうやら飛び降りた際、彼女が首から下げていたあの石は砕け散っていたらしい。ダイヤがその程度で砕けるはずもなく、おそらくはガラスでできた偽物だったんだろう、ということだそうだ。  考えてみれば、困ってから急に石が現れたこと、肌に生えているなら台座やチェーンなど必要もないこと。不自然な点はいくらでもあった。偽物かどうかなんて、遅かれ早かれバレていたに違いない。そのとき、騙していた事実がバレたときのことを考えて、彼女は更に追い詰められていたんじゃないだろうか。 「やっぱりねー、おかしいと思ったのよ。あんな変なチェーンとかつけてさ」 「いじめられたくなかったとか?にしては、ダイヤのフリした偽物とか図々しすぎない?」 「わかる。ちょっと調子に乗ってたよね。そんなにチヤホヤされたかったのかな」  彼女は別に、ダイヤだと名乗ったことはないだろ。勝手に勘違いして好き勝手なことを、と思いつつも、俺は何も言わない。死人に口なし、文句があるなら彼女が飛び降りる前に自分で言うべきだった。俺が何か言ったところで、と考えたところで、俺の椅子をがんっと後ろから衝撃が襲う。 「おいワーストストーン、なにぼさっとしてんだよ」 「……」 「偽物が居なくなったら、結局お前が間違いなくクズ石なんだぞ。わかってんのか?」 「うるさいよ、ケイ酸塩鉱物が」 「な……は、はあ!?」  彼の言うとおり、俺は変わらずクラスの一番下に逆戻り。彼女がガラスだろうがダイヤだろうが、それは変わることはない。それが俺のいつもの日常。  元より性格だけは崇高、なんて訳にはいかなかった。そう思うと彼女は、心だけはこの教室の誰よりも、……止そう。死人には口も、耳もない。    底辺の日常に帰ってきたその日、母親が久しぶりに家に姿を現した。特に彼女も俺も、何を言うでもなく、不思議な感覚で夕食を一緒に食べた。まるで、知らない人とレストランで相席になったような、気まずくて奇妙な感覚だった。  会話も当然あるはずもなく、息苦しいリビングにはテレビのニュースだけが響いた。目の前の女性のニュースの合間に、あの硝子の少女の事件の話が流れる。 「……あら」 「え?」 「ここ、お前の学校じゃない。知ってる子?」  ここしばらくはテレビでしか聞いたことのない女性の声で急に話しかけられ、一気に口の中がカラカラになった。実は隣の席の子でしたとか、どんな性格の子だったかとか、何を話すべきかと頭がフル回転し始める。 「……俺のクラスの、転校生でした」 「そう」  心なしか掠れた俺の答えは、どうやら正解だったらしい。彼女はニュースに興味もなければ、俺の話にも関心があるはずもない。だから、当たり障りのない返答が正しいんだ。俺の言葉が彼女を追い詰めたかもしれない、とか、余計なことを言って患わせることもない。俺は、ガラスでできたペンダントの話が出る前に、そっと適当なアニメ番組に変えてしまった。  風呂から上がると、いつの間にか彼女の姿はなかった。個々にさっきまで人がいたなんて、俺の勘違いだったんじゃないかと思うくらい、何の痕跡もない静かなリビングだった。テレビをつけ直して、まだ同じ話を繰り返すニュース番組をぼんやりと見つめる。 「私は本当に、綺麗だと思ってるんだ。君のトルコ石」  そう言ってくれたあのときの、はじめて見たかもしれない彼女の黒い瞳を思い出した。あの場所で寝そべっていた彼女の目は、もう光を映していたかったのだろうか。それとも、目は閉じられて、二度と開かなくなってしまったのだろうか。  あの黒い瞳が、体から生えた宝石か何かだったら、彼女は生きられたのだろうか。画面に映された彼女の写真は、無表情で何も答えない。
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