本編

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 それは、ヤマト少年が小学六年生になったとある秋の日の出来事だった。  ヤマトはその日も、いつも通り自宅から駅前の学習塾に向かって夜道に自転車を走らせていた。小学三年生以来、毎週の月・水・金のこの時間は常に塾通いである。  しかしその夜は特に肌寒く、同時に空気が澄み渡って夜空の星々、中でも月がひときわ綺麗に輝きを放って見えていた。その日は満月だった。  ヤマトが町角を曲がった時、不意に道端にうずくまってシクシクと泣く女性の姿が目に飛び込んできた。滅多に遭遇しないような光景に、なんだろうかとヤマトは思わず自転車を止めて女性のもとに駆け寄っていった。 「すみません、大丈夫ですか。どうかしたんですか」 「大事なものを落としたせいで、家に帰れなくなってしまったの」  そう言って顔を上げた女性は、透明感のある真っ白な肌に幾筋もの涙の跡をつけながら、ヤマトを腫れぼったい眼で見つめてきた。  大人の女性だった。たぶん二〇歳かそこらぐらい。年上の女性のそんな表情を見るのは初めてだったので、ヤマトは図らずもドキリとさせられた。十二単(じゅうにひとえ)を思わせる和服に身を包み、長い黒髪を後頭部で結わえたその恰好は、いわゆる織姫(おりひめ)を連想させた。 「ぼうやは、この土地の人?」 「はいそうです、けど。落としたのって、あの、家の鍵か何かですか」 「そうではないの」  女性はまた少しうつむいてかぶりを振った。彼女が涙を指先で拭うと、その滴が月の光を反射してキラリと輝いた。 「私は、月の世界に住まう天女です。私たち天女は満月の晩だけこの星に降りて来れるのだけれど、それには羽衣の力で空を飛ぶ必要があるの。けど私、この近くへ来た時に羽衣を落としてしまって」  ヤマトは自分で訊いておいて、流石にちょっと度肝を抜かれてしまった。だが天女を自称する女性は、話しながら増々悲しくなってきたようで、 「あの月が出ているうちに羽衣を見つけなければ、私は家に帰れなくなってしまう。はじめは自分で探したけれど、歩けば歩くほどここが何処だか分からなくなってしまって。私、この土地のことを何も知らない。とてもじゃないけど、次の満月までなんて生き延びられないわ」 「おねえさん、落ち着いて。もうそんなに泣かないでさ」  泣き方がどんどん激しくなってくる自称天女が気の毒に見えて、ヤマトは思わずその背中をそっとさすって慰めた。  言いながらヤマトは正直、半信半疑だった。月面が生物の住める環境じゃないなんてことは、今時科学の初歩知識さえあれば小学生だって知っている。けれどもヤマトの目には、この自称天女の悲しみ方が単なるウソとか思い込みには見えないのも事実で、何より着ている服が服なので、天女と言われても不思議と説得力を生じてしまうのだ。 「おねえさん、その羽衣ってどんな見た目をしているの」 「薄桃色の半透明で、長い形をしているわ」  説明しながら、自称天女は不思議そうな顔をしていた。 「ぼうや、ひょっとして探してくれるの」 「待っててね。この辺にあるのならすぐに見つけてあげるから」 「ぼうやって、優しいのね」  涙を滲ませながらニッコリ微笑んでくれた自称天女に再びドキリとしつつ、ヤマトはその場を一旦離れると自転車を走らせ、彼女が歩いてきたという方角を中心に、思いついた場所を片っ端から探し回り始めた。  とはいえ手がかりも少ないので、捜索は難航した。道行く人にそれらしいものを見なかったか訊ねつつ、道端を眺めたり高いところに目を凝らしたり、あらゆる手立てを尽くしてみてようやく、とあるアパート周辺にそれらしい目撃情報があることを知り、ヤマトはそちらへと急行していった。  ふとした拍子に夜空を見上げると、月の位置は探し始めた時よりも大分高くに移動してきていた。もう二時間ぐらいは探し回ったのではないか。こうなると塾の方は完全にサボったと見做されているだろう。  ヤマトは寒さにあてられて、思わずハァッと白い吐息を漏らした。 「……おれ、さっきから何やってるんだ?」  決め手に欠けるせいで同じところを三〇分近くもぐるぐると回っていたため、ヤマトは当初の決意に反して段々と弱気になってきていた。やっぱり天女なんて嘘っぱちなのかもしれない、とも。  自分はひょっとして、いつも同じ曜日の同じ時間に塾通いをするのに飽き飽きするあまり、適当な言い訳をつけて冒険がしてみたかっただけなんじゃないか? そんな考えさえ頭の隅をよぎったその時だった。 「……あーっ!」  ヤマトは反射的に声を上げた。アパートの敷地内、ほんのちょっと高い位置にある木の枝の端に、薄桃色をした半透明の長い何かが引っかかっている。羽衣だ。  ヤマトは自転車を降りると木に駆け寄り、ブロック塀などを伝って慣れない木登りに挑戦し続け、何度目かでようやく目当てのものを掴み取ることに成功した。  木の根元に降りてきて改めて羽衣をまじまじ見つめると、ヤマトは何だか不思議な気持ちがしてきた。  羽衣はまるで、無重力をまとったみたいにフワフワと宙に浮かんで重たさを一切感じなかった。触っている感触がなく、しかし音もなく自在に伸び縮みを繰り返す。成程、気付かずに落としてしまうのも何となくだが頷けた。  まさか本当に見つかるとは自分自身でも驚きだったが、これで泣いていた彼女もきっと喜んでくれるに違いなかった。 「ねえボク、何してるの?」  背後で声がして振り返ると、いつの間にかそこに妙な薄ら笑いを浮かべた小太りの男が、ヤマトを見つめて彼が停めた自転車の前にひとり立ちはだかっていた。月の光に照らされてはいるが、目元のあたりが陰になっていて顔全体がよく見えない。  天女の涙を見た時とは明らかに違う意味で、ヤマトは心臓がドキリと鳴った。 「他人のアパートに勝手に入っちゃダメなんだよ? ここは駐輪禁止なんだよ? 木登りは法律で禁止されてるんだよ?」 「すみません、探しものをしてて」  ヤマトは無意識のうちに早口になっていた。 「でももう見つけたので、帰ります。すみませんでした」 「一緒におまわりさんのところに行こう」  小太りの男は自転車に乗ろうとするヤマトの前に素早く割り込んで阻止すると、無言のまま笑んでヤマトとの距離を急に一歩詰めてきた。  ヤマトは今度こそ冷や汗が噴き出した。そういえば、満月の夜は月の引力の影響が強くなり、精神的におかしくなって犯罪を起こす人が増えるという話を聞いたことがある。これは何か明らかにやばい。ヤマトは本能的に危険を察知した。  走り出そうとしたその時、小太り男がロングコートのポケットからいきなり手を出してヤマトの手首をがっしりと掴んだ。ヤマトは悲鳴を上げようとしたが、実際の声は全部喉の奥で詰まってしまって音にならず、代わりに無我夢中で男の手を殴りまくったがこれっぽっちも効いている様子はなかった。 「逃げちゃダメなんだよぉ。おまわりさんのところに行こうねぇ」  言葉とは裏腹に、男は薄ら笑いのままアパートの奥にある暗がりへとヤマトを強引に引きずり込もうとする。ヤマトの足がぶつかって、停めておいた自転車が音を立てて横転した。折角見つけたばかりの羽衣が手から地面に落下したが、それに構っていられないぐらいヤマトはパニックだった。  暴れても暴れても逃げられない。ああ、きっと罰が当たったのだ、とヤマトは思った。自分が天女の言葉を疑って、一瞬でも羽衣を探すのを諦めようとしたから。おねえさん、ごめんなさい――。 「――ぼうや、こんなところにいたのね」  聞き覚えのある声がした。半泣きで顔を上げると、ヤマトがさっきまでいた場所に、入れ替わるようにしてあの羽衣を身に着けた天女が立っていた。最初会った時とは打って変わって、凛々しくも優しげな眼差しをしてヤマトを真っすぐに見つめている。 「羽衣を見つけてくれたのね、ありがとう」 「おねえさん、どうしているの」 「ぼうやが危ないって、月の光が報せてくれたのよ」 「な、なんですかそれ――わァッ!」  思わず少し緊張が解けて泣き笑いをしていたその時、ヤマトはいきなり目の前に突き飛ばされ強かに地面に体を打ち付けて顔をしかめた。  見れば、あの小太り男が捨て台詞もなく、猛烈な勢いで何処かへと逃げ去っていく。 「不浄の輩め、汚らわしい上に見苦しい」  だが天女はその背中にすかさず射貫くような鋭い視線をぶつけると、己が手に戻ってきた羽衣に小声で何かを命じた。  ヤマトは目を疑った。天女の羽衣が音もなく何十倍もの長さに伸びていって男をぐるぐる巻きに縛り付けると、何十キロもあるハズのその体を天高くへ持ち上げたのだ。 「己が愚行の報いを受けよ」  訳も分からず悲鳴を上げる男を、天女は容赦なく地上へと叩きつけた。アパートのごみ置き場に落下した男は、備え付けられていた大型ポリバケツをその体重で粉々に飛び散らせると、溢れ出した汚水にまみれながらギュウと気絶してしまった。  呆気にとられるヤマトの前で、天女は宙に浮きあがると薄く輝く羽衣をたなびかせながら、少年の元へと舞い降りて言った。 「ぼうや、ごめんね。私のせいで怖い目に遭わせてしまって」  再び優しい眼差しに戻った天女は、そのままヤマトの頭をふわりと抱きしめてくれた。柔らかくていい匂いに包まれたことで怖かった気持ちなど何処かへと吹き飛んでしまい、ヤマトは泣く代わりに天女の体をそっと抱きしめ返した。  しばらくそうして抱擁し合っていると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、ヤマトは思わず顔を上げた。流石に大騒ぎが周囲に気付かれたのだろうか。 「もう、私は行かなければなりません」  体を離すと、天女はそっとヤマトに向かって告げた。 「でも忘れないで。ぼうやの優しい気持ちが、諦めかけていた私に再び勇気をくれたのです。私も決して、ぼうやのことを忘れません。これはその証」  天女はヤマトの上に屈み込むと、彼の額にそっと口づけした。ヤマトの体の奥がカッと熱くなる。月の光を浴びて微笑む天女は、まるで全身が神々しく輝いているみたいだった。 「おーい、何があった! 大丈夫か?」  背後から大勢の足音がして、振り返ると警察官たちだった。もう一度天女の方を見ようとするとその姿は一瞬の隙に消え去っていて、先程と変わらないのは天から降り注ぐ月の光だけだった。  こうして短くも長い、月夜の冒険譚は終わりを告げた。  その後、気を失っていた変質者の男は警察に逮捕連行され、ヤマトはヤマトで塾を無断でサボった上に危険な目に遭いかけたということで、母親にはこっぴどく叱られ、おまけに泣かれた。こればかりは、ヤマトもちょっと反論のしようがなかった。  天女とは結局、それから二度と再会することはなかった。というか警察も親さえも、誰も天女のことなど信じてはくれなかった。目撃者が子供の自分と、あの変質者だけだったのもあるだろう。ヤマトはいつしか、誰にもこの話をしなくなっていった。  だがヤマトは、それでも信じていた。あの日自分は確かに天女と出逢って、彼女は今も故郷である月の世界から、自分を見守ってくれているのだと。  たとえ何年経とうとも、美しい満月の日が来るたびに、夜空を見上げてそう思わずにはいられなくなるのだ……。 (おわり)
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