マロングラッセ

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 人間の痛みを吸収して実る栗の木が見つかった。  研究者の男は、早速それについて調べることにした。 「私は昔から、全くうまく生きられないんです」  街の中からランダムで連れてこられた人物。まずは彼女の感情を借りることになった。もちろん許可はとってあるし、何か少しでも心に異変が起こりそうなら、すぐに研究も中止することになっている。  これから行うことはそれほど難しくない。  彼女には研究室Aを貸し出し、好きに生活してもらう。その期間の生活は全てこちらで保証するし、監視などもしない。何か彼女側に不都合があった場合に連絡が取れる手段を渡しているのと、健康状態のパラメーターがリアルタイムで分かるブレスレットを着用してもらってはいる。  通信は彼女と同じ女性に行ってもらい、基本的に、日常生活を送るのには何の不便もないようにしている。  そうして、期間内の彼女の心理状態と、栗の木の実り具合や、実の食味の変移を見る。  結果は上々。心の痛みは定期的に発生し、その度に栗が実る。それはまるで、心の中に芽生えた感情の棘がそのまま栗になっているようだった。  実った栗をマロングラッセにして食べた。砂糖は不要だった。なぜなら、砂糖を加えなくても、栗自身から蜜が滴っているのだ。はじめは男自身訳が分からなかったが、結果も満足いくものだったため、それで構わなかった。しかも、しっかりと栗の味はするし、一般的なものより濃密になっている気すらした。  正直なところ、人間社会には様々なところで心の痛みが発生している。そういったものにせめて、別の価値を与えてやることができないだろうか、と男は考えていた。そんな時に見つけたのが、この栗の木だったのだ。  研究が進めば、人の心の痛みそのものを取り除き、それを栗の木の養分とすることができるかも知れない。そんな未来がやってくれば、心の痛みで苦しむ人を少しでも多く救うことが出来るかもしれない。だからこそ、この研究はこれからさらに進めていかなければいけないのだ。  今のところ順調。彼女の精神状態も極めて安定している。これなら、滞りなく研究が進むはずだ。  ***  ところが、数週間経過した頃、異変が起きた。  栗の食味が味気なくなってきたのだ。ほとんど栗の食感のみ。まるで干からびた粘土を食しているような感覚。  何かがおかしい。男は、研究室Aに居る彼女に呼びかける。 「最近、何か調子の悪いところはありますか?」 「いえ、問題ありません。体調はすこぶるいいと思います」  なぜだろう。体調が悪くないのに、栗の甘味が減った理由。  男の頭の中で、一つの原因が思い浮かんだ。  “人の不幸は蜜の味”  もしかすると、これかも知れなかった。件の栗の木は、人の不幸を栄養に育っている。それが無くなってしまえば、当然実も実らなくなる。  では、この事態をどうするか。これに対する答えは、すでに男の頭の中にあった。  人工的に心の痛みを増やしてしまえば、再び甘味を得られるかも知れない。  彼の頭の中に浮かんだ方法はあまりにも残酷で、恐ろしいものだった。  ***  月日は過ぎ、男は再び、栗の甘味を取り戻すことが出来た。ただ、この発見の代償として、元々備わっていたはずの人間性を丸々無くしてしまった。  もともと男にあったはずのブレーキはどこかに消え、ただ、栗の甘みだけを求め続けるようになった。なぜそうなってしまったのか。男にはもう、その疑問に答えられるだけの冷静さや落ち着きは無くなっていた。  男の次の目標は、栗の実の量産だった。今のまま、一人の人間に頼り切りにしておくのは良くないかも知れない。  新たに募集した人間を数人ずつローテションしながら、収穫するようにしよう。それぞれの性格を鑑みて、品質が一定以上のものになるようにしなければ。 「さて、もうそろそろ、次の……」  かつて男の胸の内にあった、被験者に対する罪悪感や、人を慮る心から来るはずの痛みはすっかり無くなってしまった。それゆえに、より多くの痛みを求め続けるようになってしまった。 「おかしい、まだ足りない。まだ、まだ……」  より強烈な甘味を求めて。
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