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庭は気まぐれ、忘れずに
次に庭にたどり着いたのは数日後のお昼どき。男性が先にベンチに座っていた。
くるみに気づくと男性は本から顔を上げ、会釈してからくるみに歩み寄ってきた。くるみの鼓動が少しだけ速くなる。
「あの、こんにちは」
男性は少しはにかんで、ぎこちなく言った。
「あ、こんにちは」
くるみの鼓動はもう少し速まった。
「あの、これ、植物図鑑です。ガーデニング用の。よかったら、どうぞ」
男性は、クラフト紙のカバーがかかったポケットサイズの本を差し出した。
「え! ありがとうございます!」
「ここで花を調べるなら、図鑑を見るしかないかなって」
「確かに。いいんですか?」
くるみは恐縮して図鑑を受け取った。持ち運び用の図鑑だけど、しっかり厚さはある。それなりの値段がするんじゃないだろうか。
「僕、書店員なので。人に本を選ぶのが、趣味というか。逆に押し付けがましくないかなって」
「そんなことないです! 嬉しいです!」
くるみは感動して図鑑を両手で抱えた。人に本を選んでもらうって、確かにすごく素敵だ。
そういえば、大学生じゃないんだ。いや、書店でアルバイトをしてるのかな?
「あの、お兄さんのお名前は?」
「松浦一樹と言います」
「私、高橋くるみです」
よろしくお願いします、とぎこちないお辞儀をして、二人は初めて同じベンチでお昼を食べ、植物図鑑で花を調べた。
そんな穏やかな日々が続いた。
松浦は24歳で、個人経営の書店の正社員として働いている。くるみは経済学部の3年生で20歳。
お互いのことを知るほどに、二人の「庭」への入り口は別の場所ではないかと思われた。
次に会ったときに聞いてみよう。そう思った矢先の出来事だった。
けたたましいサイレンが、淡々とした講義を破るように聞こえた。居眠りしていた学生も目を覚まして、教室全体がざわついている。
消防車のサイレンじゃない?
火事? どこで?
避難した方がいいの?
すぐにSNSで話題になって「実験棟で火事らしい」という噂が教室に広まる。
その日から、くるみはあの庭を見ていない。
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