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 世の人々は信じられないものを目の当たりにしたとき、なんとか合理的な解釈をしようと努力すると思う。菫だって努力は怠ってはいないつもりだ。けれど、結局、いつだって、結論は同じだし、そんな無意味な努力もあの黒い犬に襲われた夜からは、半分もういいかなと思えてきていた。 「鈴君が認めてんだから、仕方ない……か」  自分一人ではない。  鈴にも、葉にも見えていた。  だから、それでいいし、それが事実なんだろうと、菫にも少しずつ思えるようになっていた。 「で? 結局、なんなわけ?」  本の落ちた音がした一番奥の通路に入る。通路の奥の方、文庫本の棚の前に数冊の本が落ちていた。その音まで幻聴の類とかいうわけではなかったらしい。  下に落ちている本を視界に捉えたまま、奥に向かって歩き出す。 「ただの悪戯なら、明日構ってやるから、今日はやめろ」  屈んで、床に散乱した本に手を伸ばす。そこで、え? と、菫は固まった。本に向けた視界の端に、何かとても違和感を感じるものが映ったからだ。  そして、話は冒頭に戻る。  扉は防火扉のような金属製だった。色はオフホワイト? というのだろうか、商業施設やビルなどの階段のシャッターの脇になるようなアレだ。 「は……?」  声が出た。わざとではない。思わず漏れた。その証拠に間の抜けた空気が漏れるような声だ。 「なんだ? これ」  取っ手も半円状の金具を立ち上げるタイプで、扉には凹凸は殆どない。あったら、電動書庫がつっかえるから、出っ張っているはずはない。と、考えてから、いやいやいや、と、菫は首を振った。そもそも、そんなところに扉があるはずがないのだ。もちろん、非常口は別の場所にあるし、表示灯もない。この向こうに何があっただろうと考えるけれど、全く思い出せない。確か、建物の免震設備の地下構造部だった気がするけれど、定かではない。どちらにせよ、図書館の地下書庫から直通で用事があるような場所ではない。その上、電動書架の別の通路が開いていると、そこは完全に塞がれて、出入りできなくなるのだ。  さらに言ってしまえば昨日まではこんなものはなかった。今、他の職員を呼んできて、見てもらえれば、そんなものはなかった、と、証言してくれることだろう。ただ、今も見えないと言われるのが怖くて誰かを呼ぶ気にはならなかった。 「うん。うん。わかった」  誰に、と、相手を想定してはいない。いや、相手は自分自身だ。とにかく、起こっていることを整理したくて菫は言った。 「とにかく、本はダメ」  そう言って、落ちている本を手に取る。それから、そのすぐ上にある隙間に突っ込む。少し乱暴だったかもしれない。けれど、床に落ちているよりはマシだから許してほしい。 「俺、今日は忙しいんだ。また、今度構ってやるから……」  そう、言った瞬間、ちりん。と、鈴の音がした。いつものやつだ。鈴が持っている俺があげた鈴の音。  だから、『多分』から、『間違い無く』に変わる。間違いなく、なにか人ではないものがそこにいる。 「だからさ……」  バサバサ。と、何も触れていないのに本が落ちた。 「だから……本はヤメロって言ってんだろ」  焦りと苛立ちから、思わず語気が強くなってしまった。一瞬、強く言ってしまったのはまずかったか。と、思う。刺激してしまったかもしれない。そう言えば、あの黒い犬に脚立から落とされたのもこの地下書庫だ。またあんな目に逢ったら堪らない。  そう思ったのだが、リアクションはなかった。しん。と、静まる書庫。床に落ちた本を再び拾って書架に戻す。その沈黙が何だか反省しているように感じられて(まあ、これはあくまで俺の主観なのだが)少し言い過ぎたかな。と思ってしまう。 「なんか……他にも、こう。あるじゃん? 電気消すとかさ」  と、ぼそり。と、ダメ出しをした瞬間、一斉に電気が消えた。  素直というか、馬鹿正直というか、何というか、思わずため息が漏れる。 「でもさ。……俺、今日。ちょっとどうしても遅れたくない約束があるんだよね」  本が落ちようとも、電気が消えようとも、無視して帰ることはできた。怖くて逃げかえりました。で、許される範囲の話だ。だから、それをしなかったのはもう、お人好しと言われても仕方ないと思うし、きっと、あとで鈴には叱られると思う。 「だからさ。早めに済ませてくれる?」  ため息交じりにそう呟くと、ぱ。と、扉の前の電気だけがついた。 「現金だな……」  扉の前に立つ。開けろと言っているのは間違いないだろう。開けていいことがないのも間違いないだろう。悪意はなさそうだけれど、自分の感覚は当てにならないと菫は思う。今までに、あてになったためしがないからだ。  けれど、鈴が本当にヤバイものはそんなにいない。と、言っていたから、きっと、こんなところに本当にヤバイものなんていないだろう。たかが、築12年程度の鉄筋コンクリート。ましてや死者なんて出ているはずもないクリーンな建物だ。しかも、もう2年以上勤めている職場で、この閉架書庫もほぼ毎日何やかやで来ている場所。危険なものがいるとしたら、もっと前に会っているだろう。今まで何もなかったんだから、きっと大丈夫。  そんな言い訳めいたことを考えて、菫は半円型の取っ手を立ち上げた。  ちりん。  と、また、あの鈴の音が鳴る。  一瞬、ドアの形が揺らいだような気がした。思わず、手を引っ込める。目の錯覚だろうか。いや、そもそもが錯覚のようなものなのだ。どんなことが起こってもおかしくない。  意を決して、菫は取っ手を回してドアを引いた。
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