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山のほとりには1つの山小屋があった。
山小屋には猟師とその子供、6歳ほどの女の子が住んでいた。
猟師は森で狩りをし、獲物を売ることで暮らしを支えていた。
決して裕福ではない。
山小屋の裏に畑を耕し、わずかに実る野菜を口にした。
山小屋の横を流れる川で魚も獲った。
狩った獲物は商品となるので、自分たちの口に肉が入ることはそうそうなかった。
細々とした日々を送る中、ある日女の子が唐突に言い出した。
獲物を売りに町へ出た時に耳にしたらしい。
女の子の瞳は屈託無く輝いていた。
「父ちゃん、あたしね、お雛様が欲しい」
冷たい空気が和らぎ、草木が芽吹いて生い茂る少し前の季節。
溶けた雪は川を下り、川幅を大きくして海へと向かう。
太陽がのぼるとぽかぽかと心地いい陽気の日が増えた。
暖かい日差しの下で色付くのはピンクや白の梅の花たち。
梅の木は山の中にはなく、山小屋の横にあった。
女の子が生まれた時に、猟師によって植えられたものだ。
見たことのない花の香りに、山の動物達はみんな興味を持った。
毎年、花が咲くと動物達は猟師に見つからないようにこっそりと見にきた。
「綺麗だね、お母さん」
「そうね、綺麗ね」
きつねの親子は川を挟んだ山の斜面に生える木の陰から、梅の花を眺めていた。
少し距離があるので花の1つ1つは見えないが、広がった枝にまんべんなく色付いた花がついているので木自体が花のように鮮やかだ。
「もう少し近くで見たいよ」
「だめよ。これ以上は近づいちゃだめ」
身を乗り出しそうな子ぎつねを、母ぎつねは止める。
山小屋の中には猟師がいる。
もし見つかってしまったら、大変なことになってしまう。
「さ、人間に見つかる前に帰りましょう」
「もうちょっと見たいのに」
「帰って、明日の準備をしなければ」
「明日の準備!?」
子ぎつねは弾んだ声で繰り返した。
小さく透き通った瞳が母ぎつねの姿を写す。
もう、梅の花に興味はなくなったようだ。
「そう、明日の準備。だから帰りましょう」
「うん!」
子ぎつねは小さな足で斜面を登りはじめた。
母ぎつねは周囲を警戒しながら、子ぎつねと並んで斜面をのぼる。
キンッ……
嫌な音が聞こえた。
母ぎつねの耳は自然と音の方向へ向いた。
自然界では聞くことのない音だ。
恐怖で全身の毛が逆立ち、尻尾は2倍ほどに膨らんだ。
パァンッ!!
刹那、破裂音とともに母ぎつねの足下の地面がえぐれた。
間一髪で銃弾は外れた。
とっさの事に、子ぎつねは足を震わせ動けずにいる。
「逃げなさい!」
母ぎつねは叫んだ。
力いっぱい叫んだ。その声は震えていた。
「早く、逃げなさい!!」
子ぎつねは恐怖で硬直したまま、山小屋を見ていた。
もはや、猶予はない。
次の銃弾が飛んでくる前に、母ぎつねは山小屋へ向けて走り出した。
パァンッ!!
銃弾は母ぎつねの耳のそばを風を切って通り抜けた。
足の力が抜けそうになりながら、母ぎつねは走り続けた。
斜面下の川を大きく飛び越えた。
それがいけなかった。
子ぎつねを守るためとはいえ、母ぎつねは猟師のテリトリーに足を踏み入れてしまった。
山小屋から飛び出してきた猟師に網を投げつけられ、網が絡まり足を取られて身動きが取れなくなった。
首だけ動かし、子ぎつねを探すと姿は見えなかった。
なんとか逃げられたようだ。
「ちっ、子ぎつねは逃げたか」
猟師は母ぎつねの入った網を掴むと、持ち上げて覗きこんだ。
「お前でも少しは金になるかな」
「冬の間はろくな食べ物がありません。こんな瘦せぎすのきつねを食べようとも、肉がついておりませんよ」
母ぎつねは身動きが取れず、抵抗もできないことに諦めを持って猟師に告げた。
「肉なんか当てにしてないさ。その立派な毛皮を取るんだ」
母ぎつねの瞳孔が一瞬にして大きく開いた。
毛皮を取るというのは、聞いたことがある。
そんな残酷なことをするのは人間だけだ。皮を剥ぐなど、そんなおぞましいこと……。
「悪く思わないでくれ。俺も生きていくためなんだ」
怯えた母ぎつねを見て、猟師はそんなことを口にした。
母ぎつねの入った網の口をしっかりと縛ると、猟師はその場に網を置いて何やら探して移動しはじめた。
次に母ぎつねの前に立った猟師の手には、太く短い棍棒のようなものを持っていた。
「私を殴るんですか?」
「そうだ」
「……いっそ、一思いにお願いします」
猟師が棍棒を振り上げて、母ぎつねの頭に狙いをつける。
母ぎつねはゆっくりと息を吐いて目を閉じた。
ヒュンッ——
振り下ろされた棍棒が母ぎつねの頭にせまる。
母ぎつねのまぶたの裏にうつるのは、先ほど逃した子ぎつねの姿ばかりだった。
まだ虫を捕まえるのもやっとなほどだ。これから1人で、生きていけるだろうか。
母ぎつねはそんなことばかり考えていた。
「父ちゃん?」
山小屋の扉が開き、幼い声が聞こえた。
振り下ろされた棍棒が、母ぎつねの目の前で止まる。
「父ちゃん、何してるの?」
女の子は猟師の前にある網に気がつき、近寄って覗きこんだ。
「きつねさんだー!父ちゃん、きつねさん!」
「そ、そうだな。きつねさんだな」
猟師は女の子から目をそらし、手に持った棍棒は背に隠した。
「きつねさん、かわいいね。網に絡まっちゃったの?」
女の子は母ぎつねに笑顔を向けて話しかける。
母ぎつねは何がなんだかわからず、気まずそうな猟師を見上げた。
「あー、あのな。お前、お雛様を欲しがっていただろう? だからこのきつねさんを……」
そこまで言うと、猟師はうっと言葉を詰まらせて後ずさった。
母ぎつねに笑顔を向けていた女の子が、瞳に涙をため込んで猟師を睨んだからだ。
「だからきつねさんを売るの? あたしのお雛様のために? そんなの、嫌だよ!」
女の子はわぁっと大きく声を上げて泣いた。
あまりにも大きな声に、母ぎつねは耳を伏せて首をすぼめた。
「う、売らないよ!このきつねさんは逃がそうな。そうしよう、な?」
猟師は慌てて母ぎつねの入った網の口を開き、母ぎつねの背をとんと叩いた。
逃げ道のできた母ぎつねは足に絡まる網を気にすることなく走り出し、勢いあまって転がった。
しかし、猟師はもう捕まえようとすることはなかった。
母ぎつねは思い切り走り、川を飛び越え、山の斜面を駆け上がった。
途中で一度、猟師を振り返って見た。
女の子が大きく手を振り、笑っていた。
猟師はそんな女の子を困ったように、でも、微笑ましそうに見つめていた。
❇︎❇︎❇︎
夜が更け、山小屋の周りでは川を流れる水音だけが響く。
月明かりに照らされた梅の花は昼間の可憐さとは打って変わり、艶やかに表情を変えた。
気高く咲き誇る花のついた枝が、ぷつん、と1つ折られた。
月明かりから外れた闇の中を、枝をくわえた獣が足音をひそめて動く。
ごうごうといびきをかく猟師の隣で、女の子はうっすらと目を開けていた。
山小屋の中に月明かりが入ることはなく、就寝のために明かりも消してしまったので真っ暗だ。
寝るに寝られず、昼間のきつねのことを考えていた。
網を開けると一目散に逃げていってしまったきつね。
仲良くなれたら、と思っていた女の子はがっくりと肩を落としたが、きつねが生き延びてくれるならそれでいい。
手を振ったけれど、きつねさんは気がついてくれたかな?
女の子は、ふふっと静かに笑った。
かわいいきつねさんだったなぁ。
ぷつん
川の水音とも、隣で寝ている猟師のごうごうといういびきとは違う音が聞こえた。
なんの音?
女の子は少し怖くなり、猟師の腕にしがみついた。
「娘さん、娘さん」
小さくひそめた声が山小屋の外から聞こえた。
「昼間に助けてもらったお礼をしに来ました。空から星が消え、朝日が顔を出す頃に山へ来てください。とても素敵なものをお見せします」
小さくひそめた声は耳に心地よく、優しく響いた。
女の子は声の主がきつねだとわかると返事をしようとしたが、そうすると猟師を起こしてしまうので躊躇った。
「山で待っています。猟師さんに、ついてこられませんように」
草を踏みしめるわずかな音を最後に、きつねはいなくなった。
女の子はわくわくした。
きつねさんは、何を見せてくれるんだろう?
頰が緩んで、にやけてしまう。
朝が待ち遠しい。
それまで眠れたら一瞬なのに、どうにも眠れそうにない。
女の子はそわそわしながら、長い夜が明けるのを待った。
❇︎❇︎❇︎
空が白むにはまだ早いが、星が消えかけた頃合いを見て女の子は山小屋を抜け出した。
ごうごうといびきをかく猟師は起きる気配がない。
冷たい空気に身震いをして、持ってきた半纏を羽織った。
深呼吸を1つして、きつねの待つ山へ足を踏み入れた。
しばらく登り歩くと、木の陰から立派な尾を生やしたきつねが現れた。
きつねは女の子に歩み寄り、頭を深く下げた。
「お待ちしていました。ついてきてください」
人間が歩くには険しい獣道を、きつねは軽やかに進む。
ちらちらと後ろを振り返っては女の子を確認し、遅れたりつまずけば必ず止まって待ってくれた。
そんなきつねを、女の子は必死に追った。
「どこまで行くの?」
「もう少しです」
獣道は終わり、拓けた広場のような空間が見えた。
きつねはその手前で歩みを止め、女の子に向き合った。
「ここから先は私だけが行きます。あなたは、そこの茂みに隠れて見ていてください」
きつねが指す茂みは、女の子をすっぽりと覆うほど背の高い草が生えていた。
これなら隠れるのは簡単そうだ。
「声を出さず、物音を立てず、見ていてください。今から、朝日が昇ってあたりを照らし始めるまでの短い時間だけです。いいですね?」
「うん!」
女の子は大きく頷き、きつねに促されるまま茂みに身を隠した。
茂みの外から女の子が見えないことを確認すると、きつねは目の前の拓けた広場へと入っていった。
空は白み始め、星が完全に消えた。
女の子の目には四足歩行だったきつねが、いつのまにか二足歩行になっていた。
きつねは歩みを進めるにつれ、一枚ずつ衣を羽織っていく。
淡いピンクから薄きみどり色、春を模した優しい色合いの衣が幾重にも重なる。
赤い袴をはき、オレンジを基調とした唐衣には金彩で梅や松の絵がほどこされている。
手には桧扇を持ち、髪飾りに梅の花のついた枝がさされた。
十二単をまとったきつねは、これまたいつのまにか現れた7段のひな壇を上っていく。
ひな壇にはすでに楽器を持った5人組や、弓矢を持った2人組などのきつねが構えていた。
最上段へ上ったきつねの隣には、冠をかぶり笏を持ったきつねが座っている。
そこで全てが整ったようだ。
白んだ空の彼方から、一筋の光が差し込みはじめる。
5人組のきつねが太鼓を打ち鳴らし、緩やかに笛の音をのせていく。
どこからともなく集まってきた子ぎつね達が、ひな壇の前で音楽に合わせて歌をうたう。
——あかりをつけましょ ぼんぼりに……
あどけない子ぎつね達の歌声に、ひな壇のきつね達は微笑ましく耳をすませた。
差し込んだ光はだんだんと弧を描き、朝日が昇ることを教えた。
木々の葉についた朝露が光を反射し、きらきらと輝く。
ひな壇のきつね達の衣の金彩も同様に。
子ぎつね達の歌は続く。
——きものをきかえて おびしめて
下段のほうきを持った3人組のきつねが姿を消した。
——きょうはわたしも はれすがた
弓矢を持った2人組のきつねが姿を消した。
——はるのやよいの このよきひ
銚子や三方を持つ3人組のきつねが姿を消した。
——なによりうれしい ひなまつり
楽器を演奏していた5人組のきつねと、お殿様のきつねが姿を消した。
大きく賑やかに歌っていた子ぎつね達も、気づけばもう1匹もいなかった。
「私たちきつねのひな祭り。いかがでしたか?」
残った十二単をまとったきつねが、開いた桧扇を口に当てて茂みに話しかけた。
女の子はあんなにも綺麗な光景を見たことがなく、言葉が出なかった。
だが、頰が紅潮して興奮しているのがわかる。
屈託無く澄んだ瞳に、しっかりと焼きつき忘れることはないだろう。
きつねは目を細めて小さく笑った。
「満足していただけたようで何よりです。では」
きつねは頭を深く下げると、髪飾りにさしていた梅の枝を落として姿を消した。
しばらく呆けていた女の子は茂みから抜け出すと、真っ先にきつねが立っていたところを目指した。
緑色がひとつもない枯れた草の合間に、鮮やか色の花が落ちている。
女の子は梅の枝を拾いあげた。
梅の枝についた花には朝露がつき、朝日の光を吸収していつまでも輝いていた。
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