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「幸せになってください」
そう言って笑った彼の頬を軽くなぞった。
わずかに湿っている。
私は無理やり口角を上げた。
「うん、幸せになるよ」
彼はどこか悲しそうに、でも嬉しそうに目を閉じた。
私は彼の頬から手を離す。
「もうそろそろだね」
私は呟いた。
「そっか…もうそんな時間なんですね」
彼は目を開けた。
「さよなら」
窓の外を見た。曇り空で僅かに光が差し込んでいた。
冷たい風が体を包み込む。
私は目を閉じた。目元を横に水滴が垂れる。
なぜ涙が出てしまうのだろうか。
…いいや…違う。これはきっと喜びの涙だ。
「始めましょう」
腕になにか細いものが刺さった。
目を閉じているせいだろうか。いつもよりも液体が注入されるのを肌で感じた。
ゆっくりとゆっくりと体の中で液体が回っている。
『安楽死』
痛みも何も感じない。ただただふわふわとした意識の中を漂っている。
「かほちゃん」
優しい誰かの声がした。
「かほ」
聞き覚えのある力強い声。
やめてッ…どうせお前らは私を騙すんだ。裏切るんだ。
妄想なんかじゃない。はっきりとわかってしまう。
感じたくないのに、彼らの嫌な部分が真っ黒な部分が浮き上がる。
目先の優しさを信じることができない。
だってそれは偽物なんだから。
この世界の汚い部分だけが見える。
そんなのがもう嫌だった。
それでも彼だけは違った。
彼だけは私の目を見て話してくれた。
彼からは黒いものも偽物の感情も何も見えなかった。
まるで私のことをすべてわかっているように手を差し伸べてくれたのだ。
この苦しみから逃れる方法を教えてくれた。
彼は医者だった。
致死量を超える薬を大量に投与すれば簡単に人を殺すことができることも知っていた。
私はそれにすがった。
最期くらいは幸せになりたい。
最期は苦しまずに眠るように死にたかったのだ。
それが私の望みだから。
彼は自身の手で私を殺めてくれると誓った。
私と一緒に死んでくれると。
何故そこまでしてくれるのか、と聞くと彼は笑った。
人が一生懸命に生きているのに一生苦しんだままでいいはずがない、と。
それの手助けができるなら医者としても人としても後悔はしない、と。
私はふわふわとした意識のままで彼に手を伸ばした。
彼は笑いながらこちらを覗き込んだ。
彼の目から溢れた水滴が私の顔に落ちた。
「……ごめんなさい」
あぁ…なんとなくわかっていた。
見えないふりをしていただけだったんだ、私は。
彼からは大量の黒いものが溢れ出していた。
「ごめんなさい…一緒に死ぬだなんて…やっぱり……できない」
知っていた。
本当は気づいていた。
それでも彼となら最期くらいは幸せになれると思っていた。
どこかで有りもしないことを期待していた。
彼が私と安楽死の計画を進めていけば行くほど彼の黒いものは増加していた。
それでも知らないふりをしていた。
私の心もみだれもあったのだろう。
それでもこの道を選んでしまったのだから、もう取り返せない。
意識がどんどんと遠くへ飛んで行く。
頭が軽くなる。もう…何も考えなくて………いい…
最後に頭をよぎったのはこの言葉だった。
「あぁ私結局最後まで幸せになれなかったな」
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