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「それはまことか」
「残念ながら、あの…本当です」
少しでも乱暴に歩いたら最後、とんでもない量の埃が舞い出しそうな畳の上で、真緒はきっちりと正座をしている。
なにも正座せよと言われたわけではない。
ただ、この男にはそうすべきであるような気がして、自ずとその姿勢を取ったというのがその理由だ。
夕暮れ時のあかがね色の光を受けて、目の前の男の長い銀髪は柔らかな色合いに染まっている。
ゆったりと着こなす着物と長い羽織には、藍に銀が混ざった色の紋様が細かく描かれていて非常に優美だ。
浮かない表情でこちらを見つめる顔立ちは怜悧で秀麗、そのくせ精悍さまで備えていて、とにかく完璧な造作と言っても過言ではない。
まるでこの世のものではないような雰囲気、という言葉がしっくり来るような存在だった。
いやほんとうにこの世のものではないようですけど。
真緒は、失礼かもと思いながらも男から目を離すことができないでいる。
「そなた、本当に皆守一族の娘ではないのか」
「あっはい…わたしは田沢真緒と申します、ので、言うなればその…田沢一族の娘です」
実際のところ、一族、なんて大層なものではない。
どこぞの水呑み百姓の子孫であるごく平凡な会社員、田沢治彦の長女こそが田沢真緒である。
そして、このどこもかしこも埃だらけの大きな屋敷の新しい家主、田沢真緒でもある。
「皆守の者たちはどこへ行った」
「く…詳しいことは存じませんが、なにかの相場に手を出して大きな借金を作ったと…それからこのお屋敷を売って、散り散りに」
「なんと…」
そこで、男は目を固く閉じた。
銀色の長い睫毛が扇のように伏せられるさまは、しっとりと憂いを帯びて美しい。
「…それで、そなたはこの家を買ったのか」
「あの…はい、恐れながら…」
そこから、男はしばらく言葉を発しなかった。
真緒もそれに倣って黙り込む。
こんな状況では聞かれたことに答えるくらいしかできない、そう強く感じていたからだ。
「なぜ買った」
男は顔を伏せたまま、唐突にそう問うた。
「えっ、いやあの、いなか…ではなく景色の良い静かな場所で暮らしたいと思いまして…たまたまここが安く売り出していたものですから」
「安く…」
「はい、築年数がとんでもな…歴史のあるお屋敷ですし、欲しがる方がいな…いというわけではなくしっかり管理できる方がいないということでして」
なぜここまで配慮しながら話さなくてはならない。
そうは思うが、この男の得体のしれない存在感が無礼な振る舞いに歯止めをかけているのだろう。
あちこちに地雷らしきものが多い状況で、真緒は多大な労力をかけて話を続けた。
都心での会社員としての生活に疲弊した田沢真緒は、退社とともにこの田舎の大きな屋敷を買った。
不動産屋のおやじの激推し物件というこの屋敷は、交通の便も悪く人里からもやや離れた立地にあり、そしてとんでもない築年数と長年放置され続けた経緯から、真緒の貯金でも結構な額のお釣りがくるほどの値段であった。
とにかく人としがらみの多い場所から離れたかった真緒は一も二もなく頷いて、この屋敷を買ったのだった。
そして手早く各手続を終えて、引っ越しの手配や準備やなんかも全て済ませてこの地にやって来たのが今日のこと。
もちろん住んでいたマンションも引き払って、綺麗さっぱりとすべてを断ち切ってこの屋敷の玄関をくぐったと。
「そういうこと…なんですけど」
「なるほど、ではそなたがこの屋敷の新たな主と言うわけか」
「えぇまぁ…そういうことになります、権利上は」
ここで真緒がなぜ権利上、などというこれまた遠慮した物言いをしたかと言うと。
この眼の前の男が、人間が設定した権利だの何だのという枠組みから外れた存在であることをなんとなく感じていたからだ。
つい先ほどのことだ、屋敷の玄関をくぐったその瞬間に薄い硝子が割れるような高い音が大きく響いた。
続いて、これおばけじゃん不動産屋のおやじ黙ってたな、という真緒の咄嗟の思考を吹き飛ばすような勢いの風が吹いて、しかもその風のなかにはきらきらとした光の粒が混ざっていた。
なにかえらく上品な香のような匂いが漂うなか、空気のなかから滲み出るように、浮き上がるように徐々にその姿は現れた。
浮世離れした銀髪の着物姿の男。
これがどこぞの大きな交差点やイベント会場なら、ものすごく現実感あってすごいですね!という感想を持つだけだ。
しかしこんなど田舎の古ぼけた屋敷に、しかも唐突に、映画にしかないような特殊効果を伴って現れたとなったら、これはもう人知を超えたなにかなのだと納得するしかないではないか。
そして開口一番に、そなたは皆守一族の娘か、と男は聞いたのだ。
男が問うているのは玄関の表札にあった名前だ。
あっこれ知ってる、封印されし守護神とかそういうやつだ。
真緒のその推理は恐らく当たっていて、だからこそ守ってきたはずの一族が相場に手を出して離散したという悲惨な経緯に男は、というかおそらく守護神はショックを受けているのだ。
なんというか、よくわからないことだらけだけど。
(かわいそ…)
こんなに豪華絢爛な容姿をしているというのに、見るからにがっくりと肩を落として、まだ顔すら上げられないでいるのだ。
これを可哀想と言わずに何と言う。
しかし人間に憐れまれていると知ったら神の怒りを買いそうだということも分かっているから、真緒は成すすべもなく黙り込むのだった。
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