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「そ……れは、ないんじゃないかな。ただ、心配なだけ……だと、思う」
私は言葉を途切らせながら、視線を彷徨わせました。楓さんの視点からは、面食らって動揺しているようにしか見えなかったことでしょう。実際、今まで旦那は私が話しかける人に対し嫉妬して顔をしかめることは何度もありましたが、私を束縛するようなことは一切しませんでした。だから、今『束縛』という言葉を聞いて、何も後ろめたいことがない私であれば動揺して泣きたくなることでしょう。ただただ、今の私は悪い女になってしまっているから、全て演技となってしまうだけで。でも、本来の私ならこう思うだろう、と思いこむと、自然と、涙が頬を伝いました。
どうして旦那は私を束縛するのだろう。
どうして急に信じてくれなくなったのだろう。
ただ、私は働いていたかっただけなのに。
そう思いこむと、私という人間は勝手に声を震わせ、涙を伝わせ、視線も言葉も動揺したように震えてくれました。
「居酒屋の場所は言った?」
「うん」
「門限はあるの?」
「一応、今日中に帰ってきてとは」
「じゃ、今からまだ3時間は時間あるね」
楓さんはスマホの時計を見ながら言うと、突然電話をかけ始めました。
「もしもし、今どこ? うん、そう、美愛ちゃんと今飲んでる。あ、近いじゃん。じゃあ、今から地図送るからここに来て。多分その辺からだと10分ぐらいで来れるんじゃないかな? すぐ来れそう? ……よし、じゃあ電話切ったらすぐ送るね」
口早に電話を終えた楓さんはすぐにスマホの画面に視線を落とし操作を始めました。その一連の流れを見て、誰を呼んだか大体予想はつくものの、状況に全部はついていけていない私は「楓さん……?」と尋ねるように言葉をかけました。
「今、大智を呼んだの」
「え!?」
「うん、ごめん、急に呼んじゃって。でも、私たちだけで対処できる問題じゃないと思うから」
スマホの操作を終えた楓さんは不意に顔を上げると、とても優しい表情で私に視線を向けました。その優しい空気に、私の心臓がズキリと痛みました。けれどそれを私は無理矢理呑み込んで、真っ直ぐに楓さんを見返しました。自然と自分の目が潤んだのは、有難かったです。
「私ね、最初会った時は、この女は大智のなんなんだ、とか思ってたの。実は結構腹立ててたんだ、私。でも、会って、言葉を交わして、一緒に食事をして、その回数を重ねるたびに……大智が思わず声をかけてしまいたくなるのも納得いくぐらい、凄くいい人だなって、わかったの。気づいたら、大好きになってしまうくらいに」
「……!」
ああ。
どうしましょう。
流石にこれは予想外でした。
こんなことを言われるとは予想にもしていなかったので、私の頬から本物の涙が流れてしまいました。もっと、何か言葉を言うつもりでしたのに、私は言葉を発せなくなってしまいました。だって、私は、楓さんからこんな風に言われるような女ではありません。本来であれば、楓さんから最も嫌悪される存在である女なのです。この世で最もやってはいけない過ちを起こした最悪の悪女なのです。決していい人間ではないのです。それなのに、楓さんは慈愛に溢れた目で私を見ながら、優しすぎる言葉をかけてくれるのです。それがあまりにも後ろめたくて、辛くて、しんどくて、悲しくて、でも、この上なく嬉しくて、私の涙は止まることを知らないかのように溢れ出てしまいました。
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