カノコ

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カノコが亡くなった。推定20歳だった。 人間で言えば立派なおばあちゃん。寿命だ大往生だと家族は言ったけれど、それでも寂しいものは寂しいし、悲しいものは悲しい。 「犬が亡くなって仕事を休むなんて聞いたことないわよ。しかもこの忙しい土日に」  電話でお局に嫌味を言われても、今日の私は譲らなかった。洋服を売り歩く店員は代わりがいるが、私のこの気持ちを代わってくれる人はいないのだから仕方ない。 コタツの向かい側で私の電話を盗み聞きしていた妹の日和が、口をとがらせて言う。 「テキトーに仮病でも使ったらよかったじゃん。真面目だねぇ、お姉ちゃんは」  ふぅ。私は肩を落として見せる。 真面目なんじゃない。仮病なんか使ったら、カノコの死が後ろめたいものになってしまうから、嫌だっただけだ。そんなの、カノコに悪い。 カノコは昨日の朝業者に連れて行かれ、夕方には戻ってきた。柴犬っぽい雑種の中型犬から、小さな骨壺へと姿を変えて。 骨壺は、私と日和とで事前に用意していたものだった。いかにも骨壺、みたいなものには入れたくない。なかなかこれというものが見つからない中で、ようやく見つけたのだ。 同窓会用の服を見繕って欲しいという母の要望で、母と私と日和とで商店街へ出かけた。服を選んでは試着し、選んでは試着しと繰り返していたそのとき。向かいの雑貨屋の店先にちょこんと置かれたそれに、私と日和は目を奪われた。 淡いピンクの、まぁるい小物入れ。 見つけるやいなや、私と日和は無言で頷き合った。見に行くと、小物入れの札には『かのこ』とあった。 「薄桃色に白で柄が入ってて可愛らしいでしょう。その柄、鹿の子柄って言うのよ。陶器だから、お砂糖とか紅茶とか入れると丁度いいんじゃないかしら。作家さんの一点ものですよ」  お店のおばあさんが教えてくれた。 名前も柄もよろしく、これは運命に違いない。お砂糖紅茶どころか骨を入れるなんて思いもよらないだろうおばあさんの笑顔をよそに、私たちはそれを購入した。 「試着してカーテン開けたら誰もいないんだから。恥かいたわよ」  試着室を出て靴を履きながら、小言を言う母。私と日和でお金を出し合い、服を買ってあげると申し出ると「この恥はバッグも付けてもらわないと困るわねぇ」なんて言い出した。ちゃっかりしている。地域密着のこのお店は母御用達で、価格帯も良心的だ。「じゃあ、このあとのお茶はお母さんよろしく」ということで手を打つ。 「あんたたちったら、ちゃっかりしてるんだから」  私も日和も30を過ぎたというのに、まだ実家暮らしだ。ちゃっかりか、そうでないかと言われるとそりゃあちゃっかりに違いない。ちゃっかり母娘ってか。 箱に詰めてもらった調味料入れ……もとい骨壺をビニール袋越しに眺めながら、これを使う日がずっと来なければいいのにと願った。 そんな2か月前の記憶を振り返る傍ら。 私はカノコの思い出が恋しくなって、自室からアルバムを持ち出してきた。スマホに夢中だった日和が目を上げ、 「それ私も見たい」  そう言いながら頭を寄せてきた。ページをめくっていく。 保護施設から引き取ったときの、ちょっと薄汚れているカノコ。 私たちが行くと、犬小屋へ引っ込んでしまっていたカノコ。 初めて手からご飯を食べてくれるようになったカノコ。 病院へ行ってすねているカノコ。 おずおずと散歩へ行ったカノコ。 嬉々として散歩へ行くカノコ。 このあたりから、写真が少ない。たぶん、初めての犬フィーバーが落ち着いたのだと思う。日常の、なんてことない写真が並ぶ。 スマホにも動画や写真はたくさんあるが、アルバムにしておいてよかった。なんというか、受け取る思い出の柔らかさが違う気がするのだ。 なんてことない写真の中に、しゃんとした手触りや、抱っこしたときの温もりや重さや、獣くさい香ばしい匂いや……そんな感触を確かに見る。ただただ、それに浸り続けた。 徐々に弱ってきているカノコ。 トイレに間に合わず粗相をしてしまったあとしゅんとするカノコ。 オムツをはめたカノコ。 流動食をなんとか少しだけなめてくれたカノコ。 横たわってなお必死に生きようとするカノコ……。 ここで途切れた。 途中から母も入れて3人で見ていたアルバム。みんなしんみりして、ちょっと泣いた。 「カノコ、ブロッコリーが好きだったわよね」  母が言う。 「え? チーズだよ。犬用チーズ」  日和が言う。 「違う違う。いちばん好きなのはささみだよ」  私が言う。 3人して、違うところで違うものをあげていたらしい。さっきまで泣いていたのに、ちょっと笑えた。それにしても、誰の前でも「まだご飯をもらっていませんよ」という顔をするなんて。飼い主に似てちゃっかり者か。 亡くなってなお、こうして新たな発見がある。母にも私にも日和にも、それぞれのカノコがいるのだ。そう思うと、気持ちが少し落ち着いた。 「そういえば、お父さんは?」 「お母さん知らないの?」 「お母さんも見てないわよ」 「誰か見てきてよ」 「嫌よ。寒いもん」 「言い出しっぺが見に行きなさいよ」 「だってさ。お姉ちゃん」  ちぇ。大袈裟に肩をすくめてから立ち上がってやった。父はいつもなら「母さん、お茶」なんて言ってテレビを観ている時間だ。いないとやっぱり調子が狂う。 「う~、さむ……」  居間の引き戸を開けて一歩廊下へ出ると、途端にひんやりした空気がまとわりつく。代々住んでいるこの家は、田舎ならではの、木造、和風の立派な家だ。築80年は経っているんじゃないだろうか。無駄に部屋がたくさんあるし、家の中だというのに隙間風がすごくて、夏はいいけど冬は寒い。 私は一段ごとにぎしぎし言う階段をのぼりきって、父の部屋をノックする。 「お父さん、いないの?」  返事はない。開けてみても誰もいない。中の空気は冷えきっていて、部屋主がずっといなかったであろうことを物語る。この寒いのにどこへ行ったのか。もう一度下へおり、トイレや洗面所を覗くもいない。仏壇がある和室もいない。縁側のある廊下へ出て、ガラス戸から庭を見渡す。 あ。 見慣れた鹿の子柄の半纏姿を見つけた。この寒いのに、しゃがみこんでいる。犬小屋の前で。 お父さん、と声をかけそうになってやめた。背中が震えている。たぶん、寒いからじゃない。 カノコの早朝の散歩を欠かさなかった父。特別可愛がっている様子は見せなかったけれど、父には父なりの思い出があるはずで。 そんな背中を見ていると、引っ込んだ涙がまた溢れてきた。 私たち家族に愛されていたカノコ。寂しい。会いたい。大好きだった――。 「遅いから、見に、来たけど……」 「あれで……愛情深い人だからねぇ」  母と日和も来た。3人で順番に鼻をすすりながら、黙って見守る。母の「風邪ひいちゃうといけないから、そろそろ」の合図で、私はわざと音を立ててガラス戸を開けた。父が振り向く。真っ赤な鼻、涙でぐちゃぐちゃな顔で。各々寒さに身をかたくしながら、縁側から庭へとおりる。 「これ、犬小屋の中で見つけたんだ……」  父の手には、薄汚れたきんちゃく袋があった。父の半纏と同じ生地で、亡くなったおばあちゃんが縫ってくれたものらしい。代表して私が受け取り、きんちゃくの袋を開く。中から出てきたのは。 「え。これ、あれじゃん。お父さんまだ持ってたの」  中を覗き見た日和が、手を突っ込んで中身を取り出す。 「あらぁ、懐かしいわねそれ」  お母さんも覚えているらしい。私が小5、日和が小3のとき、ふたりで父の誕生日にプレゼントしたもの。 小春日和券。 『小春と日和で、小春日和。秋の終わりから冬にかけての、あたたかい日のことを言うんだ。大人になっていくうえで、つらいことや、かなしいことがたくさんあるだろう。それでも、あたたかい日は必ずある。ふたりともに、必ず』  自分の名前の由来を教えてもらう、という学校の宿題のもと、父が教えてくれたことだった。それを聞いた私は、日和に提案した。 「ねぇ。今週のお父さんの誕生日に、『小春日和券』あげようよ」 「『こはるびよりけん』? ってなぁに?」 「普通に肩たたき券あげたって面白くないでしょ。小春と日和が、お父さんのお願い事を叶えてあげますよっていう券」 「それいいね!」  そうして母に綺麗なメッセージカードを分けてもらって、ふたりで作った券だった。使われるのを今か今かと待っていたけれど、ちょうど父の仕事が立て込んだことですれ違いになり、そのまま忘れていた。巡り巡ってまさか、カノコが持っていたなんて。 「カノコがいなくなってつらいけど、最期に、小春と日和がいるよって、教えてくれたのかもしれないよなぁ……」  そう言いながらまた、ぐずぐずと泣き出す父。 「せっかく券が見つかったんだもの。お父さん、何か願い事を叶えてもらったら?」  お母さんが促す。 「そうだなぁ、じゃあ小春も日和も早く結婚してもらって、孫」 「日和、一緒にご飯作ろ」 「オッケー。あーさむ。戻ろ戻ろ」  寒さに身を震わせながらそそくさと退散する私たち、小春日和。  春の訪れは、まだもう少し先のことみたいだ。 その夜。 仏壇の脇のカノコの前には、ブロッコリーとささみとチーズ。それにビーフジャーキーが並んだ。 <了>
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