1.そして物語は幕をあける

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その日は突然にしてやってくる。当たり前だと思っていた日常は唐突に壊れるものだ。 ふと目を覚ますと、視界一面に広がる空は鮮やかなオレンジ色をしていた。 驚いて身体を起こす。 ほんの転寝のつもりが、すっかり寝入ってしまっていたらしい。 時刻はもう夕暮れだ。 「帰らなきゃ。」 ネモフィラの花を枕にずいぶん長いこと転がっていたものだ。 腕を思いきり空へと伸ばして身体をほぐす。 今日の夕日はやけに赤い。 まるで燃え盛る炎のような…。 そう思った瞬間、風に乗ってかおるのは何かが焼ける匂い。 蜂蜜を溶かしたようなネモフィラの匂いに覆われているはずのこの花畑で、こんなにも焦げ臭い匂いがするはずがない。 頭の中で警鐘が鳴った。 急ぎ立ち上がり森へと駆ける。 次第に強くなる匂い、ぱちぱちと何かが爆ぜる音が聞こえる。纏わりつく空気が徐々に熱気を帯びていく。 嘘だ、嘘だ、嘘だ。 今朝は何の変哲もない朝だった。 空は快晴。 どこかでコマドリが鳴いていた。 母が作った朝食を食べ、サンドイッチとお気に入りの本を片手に家を出れば、優しい村の人たちが笑顔で話しかけてくる。 父が働く牛舎小屋にサンドイッチを届けて、私は花畑でゆっくりと読書を嗜む。 そして、おやつの時間になったら隣の家のおばさんが作った甘いスコーンを食べに家に帰るのだ。 そんな穏やかで温かな毎日と、同じ時間を辿っていたはずだった。 つい、うっかり転寝をして、おやつの時間を逃してしまったところで歯車が狂ったのだろうか。 こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう。 苦く熱い燻された空気が、呼吸をするたびに喉の奥を刺激する。 肺が痛い。 でも、不思議と足は痛くなかった。 もう何が起きたかは本能的に理解をしていたが、頭がそれに追いついていない。 獣道を駆け抜け、少しずつ近づく村の景色は、今朝、私がそこを離れた時とは全く別のものに変わっていた。 「村が、燃えてる…。」 森を抜け、一本道に出る。 その先には生まれた時から住む小さな村があった。 森の奥深くにひっそりと佇む小さな村。 ほとんどが自給自足の生活で、決して裕福ではなかったが、村人みんなが優しくて、互いに助け合い、守り合いながら平穏を守り続けたこの村が、今まさに、炎の中に沈みつつある。 一度止めた足は、無意識に村へ繋がる一本道を下り始めていた。 今更村に戻って何ができるのか。 逃げ延びた人はきっといない。 花畑からここに来るまでに、叫び声も泣き声も、人の声を全く耳にしなかった。 それはきっと、そういうことだ。 おぼつかない足取りで歩く少女の目に、不意にぼんやりとした人影が映る。真っ赤に燃え盛る村を背に、その男はまっすぐに少女の元へと近づいてきた。 「なんだ、小娘か。」 近づくたびに、カシャン、カシャンと独特な金属音が鳴る。 男は鉄の鎧を身に纏い。 右手には長剣が握られていた。 「兵士…」 少女は思わず後ずさる。 「なんだ?逃げるのか?逃げてもいいが、後ろを向いた瞬間に首が飛ぶぜ。」 不思議と逃げ出すつもりはなかった。 きっと本能的に背を向けたら殺されるのが分かっていたのだと思う。 隊長、という声とともに村の中からさらに三人の男が駆けだしてきた。 「生き残りですか?」 「みたいだな。村の外にいて助かったんだろ。」 「まだ幼いな…どうしますか?」 そんな会話が聞こえた気がしたが、私の耳は音を拾うだけで意味を理解しようとしていなかった。 ただただ、真っ赤な波に飲み込まれていく慣れ親しんだ街並みから目が離せなかった。 兵士の一人が近づいてくる。最初に村から出てきた男だ。 「逃げねぇのか。」 目の前に立った男は、ヘルメットをかぶっていて表情が見えない。 高い位置から降る低く、重みのある声は、こんなに燃え盛るこの場には不釣り合いに冷たく響いた。 「はっ…違うな。動けねぇのか。」 そこで初めて私は自分の身体が小刻みに震えていることに気づく。 震えを自覚した瞬間により一層震えは大きくなり、崩れ落ちず立っているのがやっとだった。 「お前も運がねぇな。村の外なんかに出てなきゃ、みんな一緒に仲良く逝けただろうに…」 そういって剣を振り上げた男は、何かを考え込むかのように動きを止めた。 けど、そんなことはもうどうでもよかった。 早くその剣を振り下ろしてくれないだろうか。 きっと気まぐれに命を長引かせられているだけで、数秒後には私も、両親や村の人たちと同じところに逝く。 目を閉じて息を肺いっぱいに吸いこめば、微かに血の匂いがした。 この男は村人をたくさん殺したのだろう。 そのうえで村に火をつけたに違いない。 ひとりも逃がさないために。 なんて残酷で、冷酷な人だろうか。 祈る神なんて持ち合わせていない私は、ただ静かにその時を待った。 しかし一向に刃が振り下ろされる気配はない。 恐る恐る目を開けると、いまだに長剣を構えた姿勢で硬直する男が目の前に立っている。 覗き込むように視線をあげれば、ヘルメット越しの瞳と目があった。 それは、今まさに村を焼き尽くさんとする煉獄と同じ、燃えるような赤色をしていた。
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