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2.囚われの姫君
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
私の記憶は焼き尽くす炎のような瞳を捉えたところで途切れている。
きっとあの後、気絶させられたのだろう。
いや、もしかしたらあまりの恐怖に自ら気を失ったのかもしれない。
どちらにしろ、すでに私はあの村を出て、どこか遠く離れたところへ連れ去られたようだ。
目が覚めた時にはすでにこの部屋にいた。
やけに天井が低く、薄暗いこの部屋は、中央に大きなベッドがあるだけで、他には何もない。
驚くほどに殺風景な部屋だった。
扉はあるが、窓がない。
扉を開けて外に出ようなんて気力はさらさらなかった。
ふと足の痛みに気づき見ると、親指の爪が割れていた。
そういえば森の中を全力で駆けたのだった。
なんどか木の根に躓いた記憶もある。
あの時はただ必死で、無我夢中とはああいう状態のことを言うんだろうな…。
走っていた時は足の痛みなんて全く感じなかったのに、柔らかなベッドの上に背を丸めて座り込んでいる今は、布に擦れるだけでも痛みを感じる。
瞼を閉じれば、脳裏に浮かぶのは焼け落ちていく村の光景と、最後に見たあの真っ赤な瞳。
思い出すだけであの時の温度、匂い、音さえも全てが生々しく思い起こされる。
忘れたい、いっそ全てを忘れてしまいたいのに、きっとこの記憶が消えることはないのだろう。
「お母さん…。お父さん…。」
もう二度と口にすることはない言葉。
声に出した瞬間に目頭がカッと熱くなった。
とっさに枕に顔を埋める。
誰もいないこの部屋で涙を我慢する必要なんてないのに、なぜだか泣いてはいけない気がした。
ここで泣いたら、きっともう、本当に立ち上がれなくなってしまう。
グッと奥歯を噛みしめて溢れるものを堪えた、その時だった。
「起きたか。」
突然の人の声にビクリと身体が震える。
おそるおそる枕から顔をあげれば、後ろ手に扉を閉める姿の男を捉えた。
すらりと伸びた長身、細身の黒髪の男。
見覚えはなかったが、その声は何となく聞き覚えがあった。
そして、男が振り返りその目を見た瞬間に誰であるかを悟る。
「あの時の…」
「ほぉ、記憶はあるようだな。」
ハッとして口を覆えば、男はにやにやと笑いながら近づいてくる。
ぎしりとベッドが揺れ、男は靴も脱がぬままこちらに這い寄ってきた。
思わず身体を後ろに逸らすが、男の大きな手が私の頬を鷲掴むほうが早かった。
強い力で無理やり男の方に顔を向けられる。
目前までせまった双眸はあの時見たもので間違いない。
まるでこの世のものとは思えないような、深紅の瞳。
そして、その瞳には、怯えを隠せずにいる自分の情けない顔が映っていた。
「金眼か。」
男はそれだけ呟くと不意に顔を掴む手を離した。
私はそのまま布団の上へ倒れ込む。
額には汗が滲んでいた。
「珍しい目だな、高く売れそうだ。」
そう言って男は口角をあげる。
それが本気なのか冗談なのかはわからなかったが、この人の言うことなら本気でもおかしくないと思った。
何せ、村一つなんの躊躇いもなく滅ぼしてしまうような人なのだから。
「いくつか質問する。お前に拒否権はねぇ。答えなきゃ殺す。それだけだ。」
男の顔に感情はない。
これはきっと脅しではなく、本当に実行されるのだろう。
この人はそういう顔をしていた。
まるで飛んでいる虫を潰すように、何の感情もなく、当たり前の如く、それを成す、ただそれだけのこと。
「お前は何者だ?」
想定外の質問に思わず目を丸くした。
これは困った。
さて、どうしたものだろうか…。
男の眉間に皺が寄る。
私は思わず目を逸らした。
そもそもどう答えたらいいのか分からない質問だった。
名前を聞いているわけではない、出身や年齢を答えるのも違う。
「何者だ」と問われても、自分は何の変哲もないただの14歳の小娘だ。
この男の望む答えなど、持ち合わせていない。
俯く私の視界の中に、にゅっと何かが伸びてくる。
それが男の腕だと分かったときには、その手は私の首に添えられていた。
「聞こえなかったか?拒否権はねぇんだよ。」
何者だ、と同じ問いを繰り返される。
別に拒否をするつもりはないのだ。
ただ、答えのない問いに対して答えることほど、難しいことはない。
求められる答えを探すうちに、首元にあてられた手に力が込められた。
途端に苦しくなる呼吸。
慌てて見上げた先では、炎を宿す瞳が不機嫌にこちらを見下ろしていた。
「死にてぇらしいな。」
指の力が一層強くなる。
死という言葉が現実味を帯びて脳裏を過る。
自分の運命を悟った私は抵抗もなく、静かに瞼を閉じた。
すると、なぜか首に添えられた手の力が弱まった。
おそるおそる目を開ければ、先ほどよりずいぶんと冷静さを取り戻した切れ長の瞳が、冷ややかにこちらを見つめている。
「そうだったな、…お前に殺すは脅しにならねぇか。」
そう言うと、男は私の首から手をどけた。
急にたくさんの空気が肺を満たす。
私はゴホゴホと咳き込んだ。
「あの時も目を閉じたな。」
あの時?
何のことかと思ったが、不意に剣を構えた兵士の姿が浮かんだ。
あの時、か。
「死にてぇのか?」
男は目を逸らさない。
ようやく呼吸が落ち着いてきた私は、声を出さず、静かに首を縦に振った。
そうだ、私はあの時から、命を捨てる覚悟はできている。
たった一人生きながらえるより、ここで生を全うしてしまったほうが幾分か楽だ。
「そうか…」
男がそう呟いた瞬間、頭に激痛が走った。
髪を引っ張り上げられたのだ。
思わず「痛いっ」と声が出る。
「じゃあ、殺すわけにはいかねぇなぁ。」
見上げた先には狂気の笑みがあった。
男の顔は整っていて、自分よりも色濃い漆黒のくせ毛が揺れる。
その中心で不気味に輝く二つの赤。
「殺さず痛めつけてやろうか。それとも…小娘と言っても女だからな、辱めを受けるか?」
クククと喉を鳴らし、男はさらに髪を引く。
頭皮が剥がれるんじゃないかと思うほど強く引かれ、あまりの痛さに涙が滲んだ。
死ぬのなんて怖くない。
本当に怖いのは、人なのだ。
まるで悪魔のような、死神のような、まさにこの人のような。
「国に着くまでまだ7日はかかる、どこまで耐えれるか楽しみだな。」
男の手が今度は妙に優しく頭を撫でた。
その奇妙な感覚に吐き気がした。
これから何をされるのか、何が待っているのか、皆目見当もつかないが、盗み見た男の表情で死よりも怖い何かだということだけがはっきりと分かった。
私はいつ、死ねるんだろう。
そんなことを考えながら、この夢のような現実から逃れるように、私は金色の瞳を閉じた。
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