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3.忘れるほどの些細な約束
「隊長、あの…ご報告が。」
背後から聞こえた声に、自室へと向かっていた足を止める。
振り返ればおどおどと落ち着きのない様子の男が立っていた。
「なんだ、手短に話せ。」
男はビクッと肩を震わせ、は、はい。
と裏返った声で返事をした。
「少女ですが…今日も食べ物に手をつけていません。」
その言葉を聞いた瞬間、無意識に眉間に皺が寄る。
その様子を見ていた男は案の定、再度肩を震わせてその場に縮こまった。
それにしても、手のかかる小娘だ。
俺はガシガシと頭を掻いた。
マジ―グランドを離れてすでに三日が経っている。
俺の部屋に閉じ込めている娘のために、ご丁寧に毎食部屋まで運んでやっているというのに、あの娘は一度も食べ物に手をつけなかった。
よほど警戒をしているらしい。
この三日間、あの奇妙な森や村のこと、その全てに守られていたとしか思えない、あの娘自身のことをあの手この手で聞き出そうとしてみたものの、彼女は口を開かなかった。
むしろ、日に日に反応は鈍くなり、今日に至っては髪を引こうが、服を剝ごうが、痛がる素振りも、恥ずかしがる素振りも示さなくなった。
「もう三日になります。さすがにこのままでは死…」
男がその続きを口にする前にじろりと男の目を見やれば、彼はひっと息を飲み、恐ろしいものでも見たかのように思いきり目線を逸らした。
ああ、またこの反応だ。
この赤い瞳は、誰の目にも不気味に映るらしい。
化物だ、悪魔だ、と散々言われてきたものだ。
「食べ物はどこにある?」
尋ねれば男は視線を合わせぬまま、
「部屋の前に置いたままにしてあります。」
と消え入りそうな声で答えた。
それだけ聞いて、俺は踵を返す。
後ろでは、遠ざかる俺にあからさまに安堵したような男の気配がした。
そんなに俺が怖ければ、すぐにでも別の隊に異動すればいい。
目を合わせただけで恐怖に慄く人々を、数えきれないほど見てきた。
そういえば、あの娘はこの目を見ても目を逸らさなかったな。
鉄製のヘルメット越しに、しっかりと見つめ返してきた金色の瞳。
変わった娘だ。
自室の前には冷めきったスープと、乾燥して硬くなったパンが置かれていた。
手を付けた気配はない。俺は深くため息をつくと、勢いよく扉を開けた。
部屋の中心にあるキングサイズのベッド。
その隅の方で少女はシーツにくるまっていた。
俺が入ってきたことに気づいているかどうかは定かではないが、どちらにしろ反応はなかった。
スープとパンが乗ったトレーを枕元に置き覗き込めば、少女が眠っていることがわかった。
きっと、身なりを整えればそれなりに綺麗な娘なのだろう。
村で初めて見た時はそんな印象だった。
今となっては、髪は乱れ、顔や手足にも痣や傷が目立つ。
閉じられた瞳の目尻には自然と涙が溜まっていた。
「悪魔…か。」
到底、人がやる所業じゃねぇわな。
まだ幼い何の罪もない少女を、いたぶり、辱め、絶望の淵に追いつめていく。
今までにも数えきれないほどの人を拷問にかけ、処刑してきた。
戦場では誰よりも多く敵を殺した。
長きに渡る戦争の真っただ中に生まれた、俺みたいな人間は、生きていくために人を痛めつけ、殺し続けなければならない。
幸か不幸か、俺にはその才能があった。
それを生業にして、生きていくことができた。
これは仕事だ。
農民が田畑を耕すように、コックが料理を振る舞うように、俺は戦場で人を殺す。
軍人の役割とはそういう物だ。
そうしているうちに、いつしか俺は『ユマンヌの悪魔』と呼ばれるようになっていた。
少女の腫れた右頬を一筋の涙がつたった。
そういえば昨夜右頬を叩いた気もするが、あまり記憶には残っていない。
気まぐれにその涙を指の腹で拭った。
触られて痛かったのか、少女はうっと顔を顰め、ゆっくりとその瞼をあげた。
ぼんやりとした瞳が何度かぱちぱちとゆっくり閉じたり開いたりを繰り返す。
琥珀を溶かしたような、透き通る金色がぼんやりとこちらを向く。
いつからこんなにも光を灯さなくなったのだろうか。
その瞳はどこか靄がかかったかのように濁っている。
「おい、娘。食事はとれ。」
その言葉とともに、パンをひとつ放ってやる。
自分の目の前にコロンと転がったパンを少女は虚ろな目で見つめた。
「捕虜のお前の分まで用意してやってるんだ。有難く食べろ。」
「なぜ?」
蚊の鳴くような高く弱々しい声が聞こえた。
思わず見やれば少女は少し身体を起こし、こちらを見ていた。
「なぜ食事をしなければならないの?私は死にたくて…、でも、あなたは殺してくれないから。それなら、何も食べなければいい。でしょう?」
こてん、と小首を傾げ、さも当然かのように少女はそう言ってみせた。
これはなんというか、驚いたもんだ。
「そりゃそうだ。納得だな。」
小娘の言い分が正しい。
それは全くその通りだ。
こんな状況で、久しぶりに喋った言葉がこれか。
三日間、頑なに口を開かなかった小娘が、今は普通に会話をしている。
なんだか一気にいろんなことが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
急にぐわんと部屋が傾いた。
スープが椀から少しこぼれる。
するとその揺れに驚いたのか、少女がきゃっと悲鳴をあげた。
「今日は海が荒れてるからな。今晩は寝れねぇかもな。」
そう言うと、少女の目が面白いほどまんまるに見開かれた。
その表情は初めて見た気がする。
ついつい俺も興味深くそれを眺めてしまった。
「海?ここは海の上なの?」
「なんだぁ!?気づいてなかったのか?」
こくんと頷く少女に、俺は思わず溜息をもらした。
マジ―グランドは島国だ、そこから祖国であるユマンヌに戻るには、約7日間は船での移動となる。
そんなことは、当たり前に分かっていることだと思っていたのに。
随分とまぁ、世間知らずなお嬢様を捕まえてきてしまったようだ。
「じゃあここは、船の中…?」
「そういうことだ。」
つい先ほどまでの生気のない顔が嘘のように、少女は急にそわそわと辺りを見渡し始めた。
そして、今まで意識もされていなかった扉の方をちらちらと見つめている。
「お前、海を見たことがねぇのか?」
すると少女は少し恥ずかしそうに頬を染めながらまた小さく頷いた。
「私は常闇の森を出たことがなかったから。」
小さな身体を丸め、細い腕で両足を抱え込みながら、少女はシーツに包まっていた。
少しだけ飛び出した足指の先が、もじもじとシーツの波を手繰り寄せる。
今日は調子がいいのか、異常なほどによく喋る。
見た感じ機嫌もよさそうだ。
いろんなことを聞き出すなら今かもしれない。
俺はベッドサイドに置かれた棚の引き出しに手をやった。
その中に潜めていた短剣に触れる。
小娘は今、確実に油断をしている。
こういう状況での急な恐怖や苦痛は精神的にも効果が高い。
そんなことを考えながら、俺はその短剣の下にあったシャツとズボンを掴み、後ろ手に少女の方へと投げた。
急に投げつけられた洋服に少女が困惑しているのが分かる。
「それを着ろ、外へ出るぞ。」
少女はさらに困惑の表情を濃くしていた。
それもそうだ。
着ていた服は剝ぎ取られ、暴行を受けた痕もある。
この窓すらない、しみったれた部屋から出ることは二度とないと思っていただろう。
俺だって出す気なんてさらさらなかった。
だからそう、これは、ほんの気まぐれだ。
「海が見てぇんだろ?」
そう言えば、またあのまんまるな瞳がこちらを向いた。
いつの間にか、その瞳はほんの少し輝きを取り戻しているように見えた。
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