ある星がこぼれた夜空に

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「二十二時十五分……か」  黒色の腕時計を見て呟いた夜、澄んだ空気の中で、二十階建ての会社の屋上から下を見ると、吸い込まれそうなくらいにまっくらだった。  たいした地震ではなかったはずだが、その影響で電線が切れて停電が起きたらしい。 『行かないの?』  秋風に吹かれて、心の中でもう一人の自分の声がする。  今日は遅番で鍵閉め係だったので、仕事を終え帰宅する前に、ただ風にあたることができたら気分を切り替えられて、それだけでよかった。なのに予想に反して街は停電になり、一人でふらりと屋上になんかにやってきて、下に広がる暗闇なんて見てしまったから、聞こえぬ声が聞こえたんだと思う。  『行かないの?』とは、『落ちないの?』という意味だ、もちろん。 「……うん、行こうかな」  僕は冷静に心の中の声に返答する。  だって停電の今はチャンスだろ?  今なら誰にも見つからずに暗闇に紛れることができる。  仕事に、というより、人生に疲れきっていた。  大学を卒業して社会人一年目で弱音を吐くのは、世間では根性なしとでも言われるだろうか。  茨城から東京という憧れの都会に出てきて、自動車メーカーで営業職を上手くこなすつもりでいたのに、ノルマも上がらず、自分と意見が食い違ってばかりの人間関係に疲れきっていた。  なんのために生きているのか問いかける毎日だ。  『行かないの?』と言うもう一人の自分の声にYesと返事をして行動を起こしたら、僕はこの世から消えるだろう。  そうなれば世間から薄情者とでも揶揄されるだろうか。  でも今の僕には、Noだなんて強く言う体力は残されていなかった。  僕はふと振り返る。  人生の最後にさよならって手を振る人はいないんだと思い、また屋上から下を眺めた。  そんな時だ、スーツの胸ポケットに入れていた携帯が鳴ったのは。  普通に携帯の電波が安定しているところを見ると、停電はどうやらたった今解除されたらしい。  街に明かりは灯り始めたが、会社近くの電線の復興作業はまだ追い付かないようで、屋上の下は暗いままだ。  携帯の画面を見ると「東山」だった。  せっかく人生を終える気持ちがまとまったところなのになと思いながら、電話に出る。  今日で最後なら、少々面倒だと思っても、少しくらい友達の話に付き合ってあげようと思って。 「なに?」  地面を見つめたまま、僕は携帯を耳に当てて口を開く。 「あのさ荻原、貸したもの返してくれない?」  唐突な質問に、僕は首を捻る。 「貸してもらったものなんて、ないはずだけど?」 「あるよ」 「え、なに?」  東山は一瞬黙り、話し出す。 「俺さ、萩原に時間を貸したんだよね」 「……時間?」 「そう、俺の時間」 「……はあ?」  あまりにもまっすぐに言うから、僕は尚更東山の言葉が分からない。黙りこむ僕を気にかけずに、東山は話を続ける。 「お前と俺はさ、高校一年の時に知り合ってさ、社会人になるまでずっと一緒にいたわけじゃん? お前が就職して東京に行くまでずっと」 「そう、だな」  曖昧な返事をして、僕はいまだに地面を見つめ続けている。  地面に少しずつ灯りが灯る。  東山は、親友だ。  高校の入学式の日からもう心を開ける仲になって、一緒に勉強したり、サッカーをしたり、文化祭で一緒に雑貨店を開いて、帽子や服や時計までも、一から作ったりした。  お互いに器用だったから、その模擬店は大成功だった。  高校を卒業して東京に行く時に、京都にある自動車メーカーで整備士として就職が決まった東山は、僕に腕時計を差し出した。それは模擬店で東山が作った時計だった。 『持っていけ』  駅のホームで東山はたった一言、僕にそう言ったのを記憶している。その思い出を振り返り、ふと我に返る。 「お前が東京行くときに、時計を渡したはずだ」 と電話の向こうで東山は言う。それは紛れもなく、今僕がつけている時計だ。  営業の仕事で腕時計は必須だったので、唯一持っていた時計を何気なく毎日つけていた。 「今、右腕についてるよ」  ごちゃごちゃしてなくて、本当にシンプルさだけを追求した黒色の時計は、模擬店の売れ残りだったとはいえ、僕の好みにぴったりなものだった。  余裕そうな顔をしていたけど、この時計はパーツ集めから組み合わせまで、東山が内心では苦労して作っていたことを、側で見守っていた僕はひそかに知っていた。  その時計を見つめる。  すると電話の向こうで東山の声がした。 「それはあげたんじゃない、貸したんだよ」 と言う。 「貸した……?」  僕は首を捻る。東山ははっきりと話す。 「そう、俺の時間を貸したの。お前が人生を動かす力を大きくするために」 「……へえ」  すごいことを言い出したと、僕は思う。 「人生を動かす力なんて、また大きく出たね」 「大きく出るよ、お前は知らないんだ」 「何を?」 「一人でも力を貸してくれる人いると思うだけで、強くなれること」  心の中に何かがずきりと刺さる。  東山は一息ついて、話す。 「だから死ぬなよ、ちゃんと見てるぞ」 「え……?」  僕が言葉に詰まると、東山ははあとため息をつき、話を繋げる。 「やっぱりそう思ってたか。このところおかしいと思ってたんだ。あんなに頻繁に連絡してたのに、最近お前、電話してこないから、今日の停電でまっくらになった時にたまってた不安が募って繋がるかも分からなかったけど……電話してよかったわ」  東山の安堵めいた声に、僕はどきりとする。  そして、ふと振り返る。 「なに振り向いてんだ? そこに俺はいないよ」 と東山は笑う。 「……何で分かったの?」  僕は目を丸めてしまう。東山は苦笑した。 「分かるよ、俺もお前に時間を貸してもらっているから」 「……なにいってんの?」 「なにいってんのは、お前だ」  僕には意味が分からない。  東山は一呼吸おいて、また話を続ける。 「とにかく俺は京都にいて、お前から貸した時間を返してもらえない。来週お前のところに行くから、覚えておいて」 「……でも」  僕は今日で人生をやめたいと思っている。 「忘れるなよ」  東山はそう言うが、言葉を受け入れられない。 「悪いな、僕はもう……」 「お前の夜空にも星はあるんだからな」  東山は僕の言葉をさえぎり、そう言い切った。 「星?」 「その星はな、見上げなきゃ見えないんだ。ないんじゃない」  東山は強く言う。 「見上げなきゃ……?」 「難しく考えるな、今は無心でもいいから見上げてろ」 「東山……」 「来週行く、忘れるな。……じゃあな」  一方的に電話がきれた。  まっくらな地面を見つめていた僕の頭の中は東山の言葉がリフレインし続けている。その後で俯いていた顔を、ふと、上げてみたくなった。  いまだに地面を見つめ続けたままだけど、夜空にはいくつもの星が、今日もあるんだろうか。 『行かないの?』  また、もう一人の僕が尋ねる。  何だか不思議な気持ちになって、  僕はふっと笑い、もう一人の自分に問いかける。 『なんであいつさ、さっき率直に自殺する気なのって聞かなかったんだと思う?』  心の声は言う、『なんでかな?』って。  だから僕は、その声に返事をする。 『言葉を選んでくれたのかな? 優しい言葉を、あいつなりに懸命に考えてくれたのかな? 僕なんかのために』  心の声は言う、『さあね』って。  だから僕は自分の今の感情が漏れた。 『僕はどうやら、一人で生きてないらしいわ』  心の声は言う、『そうかもね』って。 『大人のイマジナリーフレンドに言ったって意味ないよな』  僕は苦笑した。  もう一人の声は、もうなにも言わない。  なぜか、もうなにも。  僕は屋上からまっくらな地面を見続けて、思う。  今この時を生きているっていうのは、  君の時間を借りているということ。  僕は東山の言うように知らなかったんだ。  一人でも力を貸してくれる人がいると思うだけで、強くなれることを。  嫌なことに囚われると、自分に味方がいたことさえ忘れて、一人だと思ってしまう。それが当たり前の日々になる。  僕は思う。  今、強く知ろう。  当たり前に囚われてはいけない。  自分を受け入れてくれる場所はある。  絶対という形で。  だから、それを手放すな。  僕は夜空を見上げた。  そこには東山の言っているキラキラとした世界が、いくつもの星になって輝いている気がした。  それは今日、僕が発見した景色だった。  あいつに教えてもらった何気ない毎日の中に紛れて見つけられなかった、世界だった。  地面に明かりが灯っていく。  電線が直ったらしい。  暗闇は消えた。  地面はたまに魅力的に見えたりする。  でも今はあいつの声がする。  あいつの声が響く。  だから屋上の下を見たまま、僕は誓う。  明かりが灯っている場所でも、絶対にここから地面(そっち)には自分から『行かないよ』って。  そして今日、夜空にこぼれた星に誓う。  君を忘れて、手放したりしないよって。  そして振り返り、屋上にある扉に戻るために、通話の切れた携帯を握りしめて、僕は歩き出す。  明日もまた、現実を生きるために。
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