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ヒロイン蝶子、婚約破棄される
「婚約破棄だ。これはもう決まったことだ。諦めてくれ」
訪ねてきた婚約者、四条子爵家の次男である満の言葉に、蝶子はあっけにとられた。
姉妹たちからは、控えめに『ほどほどに饒舌』といわれる蝶子の舌も、この時ばかりは、何も紡ぐことができなかった。
婚約者はやや罰が悪そうに、ちらりと蝶子を上目遣いに見る。
「そんなに睨まないでくれ。仕方ないだろう、僕のせいじゃない。そもそも、この婚約はまだ正式なものじゃなかったはずだろう? 四条家と、君の一乃橋家は正式に結納も交わしていないじゃないか。正式に決まっていないのなら、こういうこともある」
蝶子は、顔に血が上るのを感じた。
「こっ……」
すーはー。落ち着かなければ。もう一度深呼吸する。
「こんなこともある、ですって……?」
バカを言うのももほどほどにしてほしい。たった2か月前、結婚のための式の日取りを二人であんなに話し合ったではないか。いつ満の家に行くのかとか、どんな婚礼衣装にしようとか、そういう……そういう諸々のことを。それは、もう結婚の約束をしたも同然のことだと、世間の誰だって思うだろう。そもそも、正式な結納を交わさなかったのは、蝶子の祖父が亡くなり、喪が明けて一年後にということでまとまったからであり、祖父のことさえなければ、ちゃんと早いうちに婚約だってしていたはずだ。
「……どうして、どうしてです? あなたがなさることは、華族であるあたくしの女としての立場も名誉も地に落とすものだってこと、わかっていてそうおっしゃるんですの?」
爵位をもつ華族令嬢が婚約破棄されたとなったら、傷物と世間の笑いものになるだろう。蝶子とて例外ではない。そうなったら再度、どこかの華族と婚約を取り付けることなど、不可能に等しい。
女が婚約破棄されるというのは、この明治の世に置いて、死刑宣告に等しかった。もはや自分が結婚することはできないだろうと蝶子は予感した。
「そうとも言えんだろう」
無責任に満はいうのを忌々しく蝶子は聞いた。ただ、満もいいながら、蝶子の今後の結婚の可能性はないだろうな、と思っていることはありありとみてとれた。後ろめたい、この場を早く逃げ出したい、ああ、なんて面倒な場にきてしまったのか。満の表情をまとめるとそんな感じである。蝶子はそれを見ながら、なんて無責任な男だろう、と思った。
しかし、そこに落胆はなかった。蝶子は知っていた。満はめんどうなことがあれば、すぐにその場から逃げ出してしまう。話し合いはできない性質だ。そもそも、婚約破棄をするにしたって、よく自身でここにきたものだわ、と蝶子は思った。本来の満であれば、親や親せきを代理によこしたっておかしくないような男なのだ。
「とにかく、僕はちゃんと……君に義理を果たした。本当は手紙ですませるつもりだったんだ、でも、母がどうしても君に直接言えとうるさいから」
答え合わせはすでにすんだ。やっぱり。誰に言われてきたかと思ったら、母親か。そう、満は母親にあたまが上がらないんだった。蝶子は満が母親の顔色を窺っていたことを思い出した。満の母親は商売人の娘といった感じのちゃきちゃきとした美しくかしこい人で、蝶子はなんとなく親近感を感じて嫌いではなかったが、満が一切合切を母にお伺いを立てることについては、あまり面白くなく思っていた。
「あたくしとの婚約破棄の理由はなんですの?」
それは、と満は言いよどんだ。そのままだんまりだ。答える気はないようだった。
長い長い沈黙。黙ってやり過ごす気だ、と蝶子は思った。なので、こちらから口火を切った。満の心を突き刺す一矢を。
「あたくしを捨てるんですね? あなたのせいで、あたくし、破滅しますわ」
満はため息をついた。自分のせいで何か不幸が起こること、面倒が起こることを何より嫌がる満は、蝶子の思った通り、不快そうに眉をひそめた。
「君ならなんとかできるだろう。破滅なんかしないさ」
「どうして、今なんです? あたくしの父と母は先月亡くなったばかりで、今、今になって……」
四条家と婚約していることが、ここのところの蝶子の救いだった。父と母が思わぬことから相次いで亡くなって、姉妹も蝶子も悲嘆にくれた。そんな中でも、まだ生きていける、婚約者がいれば、結婚があれば自分を立て直せると、心細さを押し殺して今日の日まで来たのに。蝶子は思った。運命は残酷だ。祖父が一年前に亡くなり、父と母がひと月前に亡くなり、まだ四十九日もあけていない。そして立て続けて婚約破棄というこの仕打ち。
涙がこぼれそうだったが、ぐっとこらえる。
卑怯な死刑宣告をしてきた元婚約者の前で、泣いてなるものか。
「……と、とにかく、これは僕の家の総意だ。僕を責めたって変わらない。きちんと伝えたから、もう勘弁してくれ。婚約破棄は婚約破棄なんだ」
もはや蝶子の取り付く島はない。
結婚の約束をした二人は、今この瞬間に決裂した。
満が蝶子の屋敷を出ていくのを見送りもせず、蝶子はしばらく呆然と部屋にへたり込んだ。
「どうしましょう……」
口をついたのは弱気だった。今まではなんだって解決してきた。姉妹の中で、一番賢く機転がきくと誰もが蝶子をほめそやした。でも、でもこの事態は、一人では解決できないような気がした。
心細さ、寂しさ、そして自分のこの先への絶望。でもそれよりも考えねばならないことがあった。それは、金策と姉妹のこと。
「結婚できないなんてまだ大したことじゃないわ……婚約破棄になってしまったら、うちは……もうひと月で破産で……姉妹全員が身売りよ……」
そう、この日。
蝶子は自分の人生と一族姉妹の人生と金銭問題を背負うという、人生至上最大の窮地に陥ったのである。
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