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春の嵐
授業の終了を告げる鐘の音と共に、私、深見紗夜は教室を足早に出た。次の授業は南館の第二教室。ここからは逆方向の校舎だ。
私はコソコソとキャンパス内を隠れながら移動する。時折、変人を見るような視線を感じるけど構っていられない。
何故、そんな事をしているかと言うと――。
「さっちゃん見っけ!」
声と共にのしかかる重み。私は潰されそうになりながら踏ん張った。
「ちょっ! ︎︎犬飼君、重い! ︎︎離してよ!」
そんな抗議の声も無視して、がっちりホールドしてくる。
「えー、やだ。離したらさっちゃん逃げるもん。次、物理でしょ? ︎︎一緒に行こ」
そう言いながら、首筋にキスしやがった。
彼は犬飼雄貴君。大学入学初日から、何故か私に執着して追い回している。
どんなに隠れようと、まるで犬のように嗅ぎつけ、こうして過剰なスキンシップをしてくるから始末に負えない。
言っておくが、私達は付き合っている訳では断じて無い。
初めて会ったのは入学式の日。
母と二人で訪れた私は、講堂へ向かっていた。そこへ息咳切って現れたかと思えば、いきなり抱きつき告白されたのだ。
「ずっと好きでした。俺と結婚を前提にお付き合いしてください」
そう言って。
私は訳も分からず叫んだ。そりゃそうだ。知らない人が抱きついてきたんだから。
一時周囲は騒然。
教師が集まり、大人数で引き剥がし難を逃れたが、それ以降もずっとこの調子だ。
犬飼君は細身で、身長もそれなりにあり、何より顔がいい。ふわふわな髪は柔らかく、抱きつかれる度に首筋を擽る。
だからといって容易く落ちるとは思わないでほしい。
友達は他人事だからといって面白がっている。見た目がいい犬飼君を、不本意とはいえ独占する私に嫌がらせをしてくる女子もいた。
「犬飼君、彼女嫌がってるじゃない。離してあげたら? ︎︎私も次物理なの。一緒に行きましょう?」
そう声をかけてきたのは、同学年一と言われる美女、志原さん。ツヤツヤのロングヘアに整った顔。スタイル抜群で男子の憧れを集めていた。
しかし、犬飼君の態度はガラリと変わる。
「うるせぇんだよ。気安く話しかけんなブス」
低い声で恫喝すると、もう興味を失い、また私にくっついてきた。
犬飼君の背中越しにちらりと見ると、志原さんは怒りの形相で私を睨んでいる。
いや、私被害者!
「ね、さっちゃん。俺お弁当作ってきたんだ。一緒に食べよ? ︎︎さっちゃんが好きなホットサンドだよ。湿気ないようにするの大変だったんだから。スープもあるよ。具沢山のミネストローネ。俺、食べさせてあげるね。放課後はデートしよ。婚約指輪買いに行かなきゃ。さっちゃん、いつも先に帰っちゃうからまだ買えてないし、早く俺のものって印付けたい」
放っておくと、どんどんエスカレートしていく犬飼君。大学の校舎内だというのに、服の隙間に手を滑り込ませようとする。
私はさすがに抵抗して肘鉄を食らわせた。それはお腹にクリティカルヒットし、犬飼君もたまらず蹲る。
「痛ったぁ!」
身長の勝る犬飼君の頭頂部を見下ろしながら、私は叱った。
「もう! ︎︎なんでそう迫ってくるかな!? ︎︎私達会ってまだ半月も経ってないよね!? ︎︎それで婚約とか……付き合っても無いっての! ︎︎一体私の何がそんなに好きな訳!?」
肩で息をしながら一気に捲し立てると、犬飼君は眉を垂れ、瞳を潤ませる。まるで尻尾を丸めた子犬のようだ。
「俺達、ずっと前に会ってるよ? ︎︎覚えてない? ︎︎幼稚園でずっと一緒だったじゃない。俺が結婚しようって言ったら、さっちゃん、うんって言ってくれた。親の都合で引っ越してからも、ずっと好きだったんだ。でも小さかったから電話番号も知らなかったし、連絡取れなくて……高校に入ってからはバイトしてお金貯めて、こっちに何度も来てたんだ。知る限りの友達の家に突撃して、さっちゃんの事、聞いて回って。この大学受けるって知った。だから入学式の日にさっちゃん見つけて、嬉しくて抱きついちゃった」
頬を染め、滔々と語る犬飼君。
その言葉に、私は首を捻った。
幼稚園?
確かに、仲のいい男の子はいた。天使みたいなふわふわのくせっ毛で、可愛い男の子。よくガキ大将にイジメられているのを庇ってたっけ。
その顔を思い出しながら、犬飼君を見つめる。
「……ゆう、ちゃん……?」
ぽつりと呟くと、途端に犬飼君は笑顔になった。ブンブンと振る尻尾が見えた気がする。
「そうだよ! ︎︎思い出した!? ︎︎俺、さっちゃんをお嫁さんにするために戻ってきたの。婚約指輪買うお金もちゃんとあるよ。ね、今日買いに行こう。結婚式は教会が良いかな。でも和装も捨て難いし……さっちゃんはどっちがいい? ︎︎部屋も探さなきゃね。一緒に住もう? ︎︎早い方がいいよね。いっそ今日から……」
犬飼君は更にヒートアップして、グイグイと顔を近付けてくる。
思い出した。
思い出したけど、ちょっと待って!
私は思わず声を張り上げた。
「犬飼君! ︎︎おすわり!!」
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