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愛している、という言葉を言葉のままに受けとっていいのは少女の頃までだ。それはうつくしく置き換えられた性欲である、と女は考える。だから、男がその言葉を発した時、女は汚水に浸かるような心持ちがした。二人きりの部屋、女は男の目をちらと見る。熱に浮かされたような瞳には欲情の色がはっきりと見て取れた。男のことは決して嫌いではなかったが、自ら進んで性的な関係を結びたいと思うほど好きでもなかった。感情を定義付けるならば「友人」と呼ぶのが丁度いいくらいだろうか。とはいえ、夕方男が女のアパートを訪ねてきた時点でこういう展開は予測できていたので驚きもしない。深夜0時、カーペットの上には飲みかけのビールと缶チューハイがこちらの気持ちとは無関係に仲良く並んでいる。
女は二度瞬きをして、僅かに目を逸らした。ふふ、とくすぐったそうな笑みを零し、照れたように、出来うる限り甘い声でうれしい、と返す。女の瞳が再び男を映すと、男はそっと女の髪に触れた。沈黙が降り、どちらともなく互いの顔が近づく。くちびるが触れた瞬間、女は男を滅茶苦茶に刺し殺したい衝動に駆られた。それをじっと堪え、男に身を委ねる。口内に侵入する舌の感触。男から漏れる吐息は甘く、そのままゆっくりと床に押し倒される。くちびるが離れたつかの間、男は再び愛しているよと囁いた。女はうっすらと笑みを零すことでそれに応え、わたしうまく演じられているかしらと考えた。男の望む女像を演じられているかしらと。しかしそれは杞憂だったようで、男はじっとりと湿度の高い目で女をじっと見、貪るようにくちびるを重ねた。女は安堵と侮蔑を隠すように目を閉じる。わたしもあいしているわ、と自らの口が紡ぐのを、意味の分からない言語として両耳が捉える。男はもはや、その欲望を隠そうとはしなかった。これから始まる情事への期待を、女はひしひしと感じていた。
気持ち悪い。
男の指がブラウスのボタンを外し、女の身体へと伸びる。這いずり回るゆびさきに、女は男が味わっているであろう悦びや快楽を感じることはなかった。それでも、初めは恥じらいから声を押し殺すように、そして次第にそれができないというように嬌声をあげた。男の様子を確認しながら、女は声の強弱やトーンに細心の注意を払った。行為の最中、男は何度も女の名を呼び、愛していると繰り返した。女にはそれになんの意味があるのかまるで分からなかったが、オウム返しにあいしていると口にすると、男は喜び、ますます興奮するようだった。それを見て、愛と性欲を混同できる男を羨ましく思った。それから、愛と性欲を混同する男をせせら笑った。媚びへつらった偽物の嬌声をあげながら、こんなものが愛なんて! と女は心の内で叫んだ。少なくとも女にとっては、それらは全く重なり合わない別の種類のものであったからだ。男はそんな女の心中など察することなく達すると、女を抱き寄せて眠ってしまった。
寝息を立てる男の腕から抜け出し、女は脱ぎ捨てられた服を纏うとベランダに出た。ぽつぽつと灯る街灯の明かりを暗澹とした思いで見つめる。真夜中の風は冷たく、僅かに冬の香りがする。先程までの行為が脳裏をかすめ、女はその場にうずくまった。
愛と性が地続きだと、女にはどうしても受け入れられなかった。これまでも何人かの男と寝た。その中には女が心から惚れた男もいた。しかしそれでも、男達から向けられる性欲に女が喜びを感じることはなかった。繰り返すうちに、きっといつか、他者と同じように行為に愛の喜びを見い出せる日が来ると自分に言い聞かせてきた。けれどもやはり、情事の後に残るのは満足感や幸福感などではなく、死にたくなるほどの寂寥感だった。女はふと自虐的に笑う。寂寥感を感じるのは間違えている。自分だって相手を騙し利用しているのに、と。
女は立ち上がり、部屋の中へと戻った。男は相変わらず幸せそうに眠っている。女は一瞬、今ここでこの男を絞め殺した方が幸せなのではないかしらと考え、すぐにその考えを打ち消した。代わりに、あいしているわ、とつぶやく。寝返りを打つ男に、女はほんの少し顔を歪ませて微笑んだ。
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