第一章

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 使者が青山家を訪れてから数日後、宙子は紫地の疋田(ひった)絞りの振り袖姿で馬車に揺られ体をこわばらせていた。  正午の号砲がちょうど北の丸の方角から聞こえきた。ちらりと前を伺うと、嵯峨野家の家令である田辺が目をふせ神妙な顔つきで座っている。  宙子の父と年の頃は変わらない田辺だが、この年齢の男性特有の押しつけがましさがない。先日青山家を訪れた父の上司は、見るからに居丈高だった。  名家の家令ともなれば、大勢の使用人をたばね家政を仕切る重要な役職だろうに、どちらかといえば影が薄い印象だ。  嵯峨野家の影の実力者でもあろう田辺に、宙子は車内の沈黙に耐え切れず話しかける。 「あの、どちらに向かわれているのですか?」  馬車はちょうど九段坂を走っていた。  さきほど宙子を迎えにきた田辺はただ『忠臣さまが、お待ちでございます』としか言わず、宙子を馬車に乗せた。 「本郷にある、嵯峨野家の別宅でございます」  田辺は、宙子の問いに簡潔に答えた。  もっといろいろ聞きたいことはあるが、これ以上話しかけるのははしたない。宙子はうつむき、膝に乗せた手のひらで絞りの凹凸をそっとなでた。
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