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使者が青山家を訪れてから数日後、宙子は紫地の疋田絞りの振り袖姿で馬車に揺られ体をこわばらせていた。
正午の号砲がちょうど北の丸の方角から聞こえきた。ちらりと前を伺うと、嵯峨野家の家令である田辺が目をふせ神妙な顔つきで座っている。
宙子の父と年の頃は変わらない田辺だが、この年齢の男性特有の押しつけがましさがない。先日青山家を訪れた父の上司は、見るからに居丈高だった。
名家の家令ともなれば、大勢の使用人をたばね家政を仕切る重要な役職だろうに、どちらかといえば影が薄い印象だ。
嵯峨野家の影の実力者でもあろう田辺に、宙子は車内の沈黙に耐え切れず話しかける。
「あの、どちらに向かわれているのですか?」
馬車はちょうど九段坂を走っていた。
さきほど宙子を迎えにきた田辺はただ『忠臣さまが、お待ちでございます』としか言わず、宙子を馬車に乗せた。
「本郷にある、嵯峨野家の別宅でございます」
田辺は、宙子の問いに簡潔に答えた。
もっといろいろ聞きたいことはあるが、これ以上話しかけるのははしたない。宙子はうつむき、膝に乗せた手のひらで絞りの凹凸をそっとなでた。
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