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落ちぶれた士族に財力はなく、結婚する利点がないことに加え、宙子の容姿も足を引っ張っているのだろう。
毎日花嫁修業という建前で家事をこなし、週に一度琴の出稽古に行くのが唯一の楽しみであった。琴を弾いている時だけ、心が軽くなるのだ。でも、かといってこれという不満はない。
母に庇護され食べるものにも困らず、淡々と日々が過ぎていく。それでいい……。
うつむく宙子の唇から、ふっと笑いがもれる。
これでわたしは、本当に生きていることになるのだろうか? 母の氷の腕に慈しまれ日々を安穏にすごしても、心は次第に凍り付きいつかは粉々に砕けるだろう。
同じ砕けるなら、宙子として消えていきたい。
そんな詮なきことをうつむきながら考えていると、ふと人の気配を感じた。顔を上げると道をふさぐように、背の高い洋装の男性が立っていた。男性はまぶかにシャッポをかぶり、赤い唇と首元に巻かれた赤いネクタイが宙子の目に焼き付く。
ああ、異人さんだわ。どうしよう……。
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