記憶の階段5

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記憶の階段5

 日本。とある冬の日の、夜のことだった。  緊急地震速報のアラームが鳴り響く。  私は、ベッドの上でゲームをやっていた息子の上に覆いかぶさると、暴れるその身を抑え込んだ。  「嫌だ!壊れちゃう!僕の大事な友達が!死んじゃう!」  棚からは、息子が世話をしている多肉植物たちが落っこちて、床を鉢植えの欠片と土が汚して行く。  まだ、まだだめだ、まだ動いたらダメ。  もし、そこへ行けば、棚が倒れて来るかもしれない。  「ごめんね、大丈夫、あの子たちは強いから。直そう、後で一緒に。新しい鉢植えも、買いに行こうね。今は、動いちゃダメ、ね」  「うわああああん!大事なんだ!僕の!僕の大事なこたちなのに!」  「うん、…うん、…そうだね、大事なのに、ね」  へたり込んだ私の胸から、息子がするりと抜け出ると、床に散乱した土を搔き集め、根が抜けて転がったサボテンに触れようとする。  「手をケガするから、お母さんがやるから」  「うわあああ、ああああん」  「…大丈夫、大丈夫、大丈夫、だから、ね」  動揺していたのか、砕け散った植木鉢や、広がった土に、私も素手を突っ込んでいた。  だけど、息子が泣いている。  早く、安心させてやらないと。  元通りになれば、きっと落ち着くはずだから。  元通りに、そう、元通りに、なるのだから。  あの日とは違う。  何もかも壊れたままで、取り戻せなかったあの日とは違うんだ。  大事な大事な君は、私と今、生きている。  笑っていて欲しい。  泣かないで、お願い、私も、君が大切なんだ。  「…、お母さん!電話、ずっと、鳴ってる!」  「あ、…ありがとう」  しゃくりあげながら、息子が私の耳にスマホをあてる。  通話のボタンを押してくれたようだった。  向こう側から聞こえたのは、女性の声だ。  『うた子さん!』  「…え、っと」  『良かった!つながった!』  それは、宮城県に住む、あの人からの声だった。  キイロさんと言って、一度だけ実際にお会いしたことがある。  同じアーティストのファンで、ライブに行った時に開演前の数時間カフェで待ち合わせをして、お話をしたことがあった。  震災の前のことだった。  「キイロさん、キイロさんは、無事ですか」  『うん、ちょっと、部屋が大変ですけど』  震源地は、きっとまた、宮城県の方が近いに違いない。  そちらの方が、はるかに揺れたでしょうに。  それなのに、私の心配なんかを、あなたはしてくれるんですか。  以前にも、とても怖い想いをして、今でも当時の傷を抱え続けているであろうあなたが、どうして私なんかの無事を、喜んでくれるんですか。  沢山の出来事を、当時リアルでネットに書いていたキイロさんは、その後、そのSNSのアカウントを削除してしまった。  それから、私たちは関わることがなくなっていた。
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