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2章 なりたいものになるために 第7話 予想外のできごと
テーブルをセットし、さぁ座ろうかと言う段になった時。
「松村さん、こんな時間ですけど、ワイン開けてもええですか?」
祐ちゃんが言い出し、担いでいた黒いリュックから淡いモスグリーン色のワインボトルを取り出して、テーブルに置いた。色からして白ワインだろう。
「シャルドネのプイィ・フュイッセ。フランスワインの入門編みたいなワインて聞いたんで、買うて来たんです。冷やしてあったんで、まだ大丈夫かと」
すると松村さんが「そうやね」と頷いた。
「ソムリエの2次試験にもよう出て来るワインやな。典型的なシャルドネや。甘めで飲みやすいと思うわ。祐樹くん、ええセレクトやで」
「へぇ」
さすが松村さんはワインにも詳しいのだろう。守梨は凄いなぁと素直に感心する。
「ありがとうございます。守梨がワインエキスパート目指すんやったら、少しでも多くワインに触れといた方がええやろと思って」
「そうやね。ソムリエでもエキスパートでも実技試験あるし、舌は鍛えるんに越したこた無いやね。ほな、ワイングラスとオープナー取って来るわ。守梨ちゃん、棚触ってええ?」
「あ、私が行きます」
守梨は慌てて立ち上がると、厨房に入る。食器棚を開けて、ワイングラスを3客出した。白ワインに適した丸みの少ないワイングラスである。そして引き出しからはソムリエナイフを。
ワイングラスの形は様々で、白ワインでもこれから飲むシャルドネ、そしてリースニングとソーヴィニヨン・ブランでグラスの形状が変わる。シャルドネでも樽熟成されたものだと、膨らみがあり口が広めのものになる。
だが「テリア」ではそこまで細かく分けていない。白ワインと赤ワインで区別している。赤ワインは風味の要素が多いので、大振りのワイングラスで飲むのが良しとされているのだ。
フロアに戻り、ソムリエグラスとナイフをテーブルに置く。するとナイフを手にしたのは松村さんだった。
「ワイン抜くんはいっつもフロアの子に任せとるから久々やけど、まぁいけるやろ。ソムリエナイフは慣れたら使いやすいし、そうやなぁ、これは代利子さんが使こてはったやつか?」
「そうです」
「それやったら守梨ちゃんは自分が使いやすいやつを、いろいろ試してみて買うたらええわ。ワインを扱う飲食店に必要不可欠やからな」
「はい」
松村さんはソムリエナイフから開封用ナイフを出すと、プイィ・フュイッセのボトルを手にし、手際良く白いキャップシールをカットする。それを剥がすとコルクにコルク・スクリューをねじ入れ、ボトルの口にフックを引っ掛けて、ゆっくりとコルクを抜いて行く。
鮮やかな手さばきである。守梨もできる様にならなければと思いながら、松村さんの手元に見惚れてしまう。
やがて「ぽん」と軽快な音がし、コルクが綺麗に抜けた。コルクはワインで湿っていて、松村さんはその香りを嗅ぐ。
「ん、ええワインやわ」
満足そうに頷き、3客のワイングラスに静かに中身を注いだ。熟成されたぶどうを思わせる芳醇な香りが漂う。
「ほな、乾杯しよか。守梨ちゃんと祐樹くんの前途に」
「ありがとうございます。頑張ります」
「はい、俺も」
「うん。乾杯!」
松村さんの音頭で、守梨たちはワイングラスを軽く掲げる。ワイングラスで乾杯の時に重ね合わせるのはマナー違反とされている。グラスの造りが繊細で、壊れやすいからである。
守梨はワイングラスを口に寄せる。すると香りはさらに濃くなる。それに誘われる様にそっと口を付けた。
こくりと傾けると、爽やかな香りが口いっぱいに広がる。なめらかだがきりっとした酸味も感じ、その中に甘味がふうわりと香る。美味しい。次を含もうかとこくんと飲み下す。
その途端。
「うっ……っ?」
守梨は咄嗟に口を抑えた。突如沸き上がる軽い嘔気。お手洗いに駆け込むほどでは無いが、不快感が喉元を迫り上がる。血の気を失う様な感覚も襲って来た。
「守梨?」
「守梨ちゃん、どうしたん」
祐ちゃんと松村さんの気遣わしげな視線を受け、守梨はふらつく頭をどうにか堪える。
「すいません、急に気持ち悪うなって」
「具合い悪いんか?」
「判らん、さっきまで全然平気やったのに」
すると松村さんが「もしかして」と口を開く。
「守梨ちゃん、ワイン飲んだやんな?」
「はい、ひとくちだけ」
いくら何でも、たったひとくちで酔っ払うことはあり得ない。守梨は特別強くは無いが、弱くも無い。平均的だと思っている。
そもそも守梨は、調子を崩すほど飲酒をすることは無い。お酒を出すお店で働いたり営んだりしてきた両親にも、強く言われていたのだ。
「お酒は美味しく飲むもんや。酒に振り回される様なことがあったらあかん」
多少は酒癖というものもあるだろうが、あくまでお酒は楽しく、気持ちよくなるための嗜好品である。
両親はきっと、現場で様々な酔客を見て来たのだろう。その経験からの言葉なので、守梨はできる限りそれを守る様にしていたのだ。
「もしかしたら、守梨ちゃんはワインを受け付けへん体質なんかも知れへん」
「え……?」
体質? そんなものがあるのか? 守梨は不快感を耐えながら不安になり首を傾げる。
「うちのお客さんにもいてはんねん。急にワイン飲めんくなったちゅう人。私も詳しくは無いんやけど、ワインに含まれるヒスタミンっちゅう成分が分解できひんかもて言われててな。それかも知れん」
「でも私、前は赤も白も普通に飲めてました。ロゼも」
そう頻度は高く無かったが、ワインを飲んだことはある。その度に美味しく味わっていた。こんな気持ち悪さに見舞われたことは無かった。
「うん。体質って急に変わるんやね。前ワイン飲んでから今日までの間に、変わってしもたんやわ」
そんなの、致命的では無いか。だって、だって守梨は。
「ほな私、ワインエスキパートの資格、取られへんてことですか……?」
「そうやね。身体に毒になるもんやから、無理はせんほうがええと思う」
松村さんが気の毒そうに言い、守梨は「そんな……」と、絶望にも似た気持ちに陥った。
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