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2章 なりたいものになるために 第8話 諦めなければ
「テリア」再開のためにワインエキスパートの資格を目指そうとしていたのに、ワインそのものが飲めない体質かも知れない、そんな疑惑が沸き上がり、守梨は落胆するしか無かった。
今あるのは嘔気だけだ。それならテイスティング試験の時だけ無理をすれば、やり過ごせる可能性だってある。
だがそんな状態で、果たしてまともに味覚は働くのだろうか。守梨には自信が無い。
それにもし醜態を晒す様な羽目になってしまったら、試験以前の問題だ。守梨がしんどい思いをするだけならともかく、会場や試験官に迷惑は掛けられない。
まさかこんなところで躓くなんて。守梨は暗澹たる気持ちになる。目頭がつんと痛くなり、守梨は両手で顔を覆った。
もちろん好みだってあるのだから、ワインは飲まなければならないものでは無い。ビールだけで楽しむお客さまだっているだろう。
だがフレンチとワインはやはり切っても切れないものなのだ。お客さまが銘柄を指定するなら問題は無いが、注文したお料理に合うワインを聞かれたら? ワインを飲むことすらできない守梨はどうおすすめしたら良い?
すると祐ちゃんが「ちょっと待っとって」と立ち上がり、厨房へと向かう。戻って来た時には手にノートが数冊あった。お父さんがレシピを書いたのと同じ種類で色違いの大学ノートである。レシピはライムカラーだったが、こちらはベージュだった。
祐ちゃんはそれを守梨に差し出す。顔を上げた守梨が見たのは、労わる様に優しい顔をした祐ちゃんだった。守梨はそれをおずおずと受け取る。
「これは……?」
「おやっさんのレシピと一緒に入ってた。お袋さんが作った、フランスワインのノートや」
そのノートは元の厚さよりかなり膨らんでいる。守梨がそっと開くと、左側にワインのエチケットが貼られ、右側にワインの情報が書かれていた。細かな味わいや合うお料理などが記されている。
「凄い……」
感嘆の言葉がするりと漏れ出た。ワインの知識が乏しくてもその風味が想像できる様に、詳細に書かれている。
例えば1ページ目にあったドメーヌ・デ・マロニエール。生産地はブルゴーニュのシャブリ地方、ぶどうの品種はシャルドネ。生産者の名前がそのままワインの銘柄になっている。
ライムやグレープフルーツなどの柑橘類やフレッシュハーブを思わせる爽やかさと酸味、ミネラルを感じさせる味わい。きりっとした辛口のシャブリらしさ。癖が少なく素直な飲み口。日本料理や和食と特に合う。
まだ微かに嘔気は残っているが、その爽快な味が口の中に広がる様な気がした。合うお料理からも、日本人の好みなのだろうということが伺える。
他のページも同じ構成で綴られている。ノートは赤ワイン、白ワイン、ロゼワインと貴腐ワインにスパークリングワインで別れていて、全部で3冊あった。
おそらくだが「テリア」で扱っているワインは網羅し、他の銘柄もたくさん載せられているのだろう。
「多分ソムリエ試験に向けてやろうけど、他の産地のワインのノートもあったわ。けど「テリア」で扱ってるワインはフランス産だけやから、これで勉強できるんちゃうか」
「勉強、できる……?」
ワインが飲めない。だから何もできないと思ってしまいそうになっていた。だが。
「ワインが飲めんでも、知識があったらええんちゃうやろか。どんな味、どんな料理に合うか、それが分かってればおすすめできるやろ?」
「そうやで、守梨ちゃん」
祐ちゃんの言葉を繋ぐ様に、松村さんが明るく口を開く。
「確かにソムリエとかエキスパートの資格があった方が、信用はあるかも知れん。でもな、ここは大阪やで。ワイン飲まれへんのがネタになるやん。この料理にはこれがおすすめですよ。でも私はワイン飲めない体質なんです、えへ。なんてな」
ワインが飲めなくても、ビストロで給仕ができるのか。その希望が出始めて、守梨は顔を上げる。
「……そっか、飲めへんでも、知識は入れられますもんね」
「そうそう。幸いここはビストロや。居酒屋とかバーみたいにお客さんから1杯どうぞ、なんてすすめられることもそうあらへん。もしあって、飲まれへん言うても、大概のお客さんは「なんやそれ」言うて笑ってくれはるわ。せやから安心しぃ。大丈夫や、代利子さん、こんなええノート遺してくれてはるんやから」
「そうやで、守梨。大阪人はそんな細かいこと気にせぇへんて」
祐ちゃんにも言われ、守梨はようやく「うん」と頷いた。
「松村さん、祐ちゃん、ありがとうございます。お母さんのワインノートを教科書にして、勉強します」
「うん。守梨ちゃん、明るい顔になったな」
松村さんに言われ、守梨は恥ずかしくなる。
「とんだ姿を見せてしもて」
「ううん、まだ春日さんと代利子さんが亡くなって、そう経ってへんやん。まだまだ落ち込んでたりしてて当たり前なんよ。それやのに守梨ちゃんは気丈に振る舞って。偉いと思うわ。「テリア」を再開させる夢、めっちゃ素敵やん。応援するから、いつでも頼ってな。店があるからこうやって来られへん時もあるけど、日曜日は時間あるし」
「ありがとうございます」
そっと労ってくれる松村さんがありがたく、守梨はじわりと心が暖かくなる。祐ちゃんも優しい眼差しでいてくれた。大丈夫、まだまだ進める。諦めない。守梨は決意を新たにした。
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