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3章 意図せぬ負の遺産 第1話 走り続ける日々
季節は少し流れる。梅雨が終わり、本格的な夏を迎えていた。じめじめとした湿度は肌に不快ではあるが、照り付ける太陽が清々しくもある。
『そう、刺身を切る時は、のこぎりみたいに押し引きせずに、奥から手前に引くんや。刃元の方から入れて、そう、そんな感じや。巧いで』
おやっさんのレシピにあった、まぐろのカルパッチョ。目と呼ばれる筋肉の筋、繊維が左下がりになる様に柵をまな板に置き、スライサーとも呼ばれる筋引き包丁で切り付けて行く。
筋引き包丁は牛刀包丁よりも刃渡りが長く、慣れていないと扱いづらい。今日祐樹が買って来たまぐろは、比較的安価なきはだまぐろだ。毎日こうして料理をするには、財布との相談は大事である。
おやっさんに手ほどきしてもらう時、その材料を調達するのは祐樹である。だが材料費は守梨と割り勘にしていた。最初は少し良い格好もしたくていらないと言ったのだが、それが祐樹と守梨の晩ごはんになるのだから、自分も払わなければおかしいと、守梨が言い張ったのだ。情けない話だが、それが助かっている部分も多い。
「テリア」で使っていた食材は、おやっさんが厳選したものである。まぐろなら本まぐろだし、例えば鶏肉なら地鶏など。スーパーなどで買えるブロイラーとは一線を画している。
国内で有名なのは秋田県の比内地鶏や名古屋コーチンなどだろうが、関西でも数々の地鶏が育てられている。仕入れノートを見ると、「テリア」では兵庫県の地鶏が使用されていた。
大阪にも、主に富田林市にいくつかの養鶏所があるのだが、出荷されているのは鶏肉では無く卵である。いわゆる大阪地玉子と呼ばれるものだ。もちろん「テリア」でも使用されている。
そういった高級品を毎日揃えるのは、祐樹の懐事情では難しい。それは守梨も、そして教えてくれるおやっさんも心得ていて、それについては賛同してくれている。
ただ食材の味そのものが違うので、レシピ通り、おやっさんが教えてくれる通りに作っても、厳密に「テリア」の味に仕上がることは無い。
それで味覚が狂わされることの懸念はある。おやっさんの味の記憶はあるものの、遠くなれば薄くなる。思い出補正もあるだろう。
なので週に1度、金曜日だけはスーパーで買える範囲ではあるものの、良い食材を買う様にしている。それだけでも少しは近付くはずだ。
ただ祐樹にとって、記憶を掘り起こせる瞬間が、土曜日の「マルチニール」での修行である。
当然だが松村さんこだわりの食材が使用されているのだ。おやっさんの厳選素材とは違うが、良いものという部分は共通している。
仕込みを終え、営業開始前に全員で食べる賄いを作るのは祐樹の仕事である。使うのは切れ端などだが元は良いものなのだから味は変わらない。それを松村さんの指導で作るので、おやっさんの味と通じるものがあるのである。
こだわりの食材で丁寧に仕込まれる料理。それを週に1度食べることで、祐樹は味覚を保っていた。
「今日もめっちゃ美味しいわ、祐ちゃん」
守梨はそう言って、またフォークできはだまぐろのカルパッチョを口に運ぶ。守梨は食べたものの感想が表情に良く出る方である。目尻が下がり口角が上がっているので、本当に美味しいと思って食べてくれているのだろう。
カルパッチョのソースはシンプルである。レモン汁とオリーブオイル、挽いた黒こしょうを混ぜるだけだ。
だがその割り合いはおやっさんのレシピだし、乳化させる必要があるから、泡立て器でしっかりと攪拌する。空気を含ませることでまろやかになり、酸味も和らぐのだ。
丸く白いプレートに放射線状にきはだまぐろの切り身を並べ、ソースを糸状に丸く掛け、ローストしたダイスアーモンドを振りかける。真ん中の空いたところには、玉ねぎのスライスをふんわりと盛り付けた。
ソースとアーモンドが絡んだきはだまぐろで玉ねぎをくるんで食べると、ねっとりとするまぐろの食感の中に、香ばしさと爽やかさが立ち上がる。それらが調和し、またまぐろの独特の味わいを引き立たせるのである。
祐樹などは、これを本まぐろで作っていたら、もっと美味しいだろうにと思ってしまうのだが、守梨は満足そうに頬張っている。
守梨は確かにおやっさんの娘で、おやっさんの料理をたくさん食べて来たのだが、「テリア」のメニューを口にすることはあまり無かったのだと言う。ドミグラスソースを使った料理も、記念日などに食べさせてもらえるぐらいだったのだそうだ。
だから材料が違っても祐樹が作ったものでも、こうしておやっさんのレシピで作られたものを食べるのが、守梨には嬉しいのだろう。
今日はカルパッチョの他に、ラタトゥイユをを教えてもらった。ラタトゥイユはフランスのプロヴァンス地方、ニースの郷土料理だ。なので「テリア」では定番料理だったそうだ。
夏野菜とは言え、茄子やズッキーニ、パプリカにトマトは今や年中流通している。なので「テリア」でも年中提供されていた。だがやはり、旬の時期には瑞々しく張りのあるものが手に入る。そう思うと夏に作るラタトゥイユは格別である。
守梨は深さのある器に取り分けたラタトゥイユをスプーンで食べる。そして「んふ」と息を漏らした。目が弓なりになっている。これもお気に召してくれた様だ。
甘さ、ほのかな苦味、少しの青い癖。そんな特徴を持つ夏野菜をトマトの柔らかな酸味がまとめ上げる。オリーブオイルとにんにくでまろやかさとコクを与え、ハーブが爽やかさを生み出す。
今はできたてなので温かいが、「テリア」では冷たい状態で出していたそうだ。常備菜の様な扱いである。動物性の脂を使っていないので、冷やしてもなめらかさが保たれる。さっぱりといただけるのだ。
今、守梨も頑張っている。週に1日、水曜日の夜にセミナーに通い、土曜日には松村さんに紹介してもらったビストロのホールで働き、平日にはおやっさんのレシピと、お袋さんのワインノートで勉強の日々だ。
守梨は料理はできないと言うが、店で出す料理の知識は必要だ。客にすすめることもそうだが、聞かれて答えられないなんてことがあってもならない。もちろんお袋さんもそういった内容は全て頭に入れていた。
祐樹はまだ、守梨に言っていない。自分が「テリア」の料理人になりたいと思っていることを。
まだまだその域では無いということもあるし、正直到達できるか判らない。なので下手に言えないということもある。
守梨が「テリア」を再開できる目処が立った時、おやっさんに合格がもらえていれば、打ち明けるつもりである。そして自分を雇って欲しいとお願いするつもりである。
そのためには、自分はもっと励まなければならないと思っている。守梨よりも早く走らなければ。駆け続けなければ。
守梨のそばにいるために、できることは全てやろう。守梨の笑顔を見るたびに、祐樹はそう強く思うのだった。
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