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3章 意図せぬ負の遺産 第4話 込められた気持ち
「テリア」のドアのガラスが割られてから数日、土曜日がやって来た。
守梨にとって、あれから心が落ち着かない日々が続いた。採光用のガラスはドアだけでは無く、お店の正面の壁にもはめ込まれている。高さはドアのガラスと統一されていた。
フランス語で「巣穴」と言う意味を持つ店名の通り、ひっそりとした隠れ家の様な佇まいにしよう、しかし閉塞感を感じさせない様にと、採光用の窓を採用したのだった。
そちらのガラスも割られてしまったらどうしよう。まだ修理ができていないドアの、簡易補修が破られて何かを投げ入れられたりしたらどうしよう。そんな不安を抱えながら、数日を過ごした。
今日は仕事が休みなので、午前中に修理に来てもらうことになっていた。それで少しは安心できるだろうか。家の一部がああいう風に破損していることが、こんなにも心許ないとは。
警察から連絡などの類は一切無い。やはり後回しにされてしまっているのだろう。被害がガラスだけなのだから、仕方が無いのだろうか。そうは思いつつ、警察に対する失望感が膨らんでしまう。
ともあれ、今は自分で用心するしか無い。守梨は家事を片付けつつ、ガラス屋さんを待った。
ガラスの修理は無事に終わり、簡単なお昼ごはんを食べ終えた守梨は、少しばかりの安寧を取り戻して勉強に取り組む。最近は時間があれば、お父さんのレシピやお母さんのワインノートと向き合っていた。
昔からテストと言えば一夜漬けだった守梨が、こうしてこつこつと続けるのは珍しいことと言えた。だが学校のテスト範囲とは違い、何せ量が膨大なのである。これに加えてセミナーの復習と予習もある。時間はいくらあっても足りない。
守梨はあまり記憶力が良い方では無かった。だからテスト前に詰め込むだけ詰め込んでいたのだが、その分成績もそれなりだった。
だが学校の勉強とは違い、テリアに関する勉強は予想外に楽しいものだった。両親の宝物を守るために、と始めたことだったが、今は自分のためにもなっているのだなと感じる。
偏りはあるものの、知識が増えることが楽しいのだ。知識は人を豊かにするなんて話を聞いたことがあるが、それは本当なのかも知れない。今まで知らなかったことが自分の中に吸収されるたびにそう思う。
お料理はからっきしなのに、不思議とできる様な気さえしてしまう。本当に気のせいなのだろうが。
そんな集中は、インターフォンの音で途絶えた。
誰だろうか。祐ちゃんは土曜日には夕方から「マルチニール」で修行なので来ないはずだ。宅急便か何かだろうか。心当たりが無いまま、守梨は自室から出て対応する。
「はい」
「あの、「テリア」の常連やった者なんですが。榊原と言います」
太い男性の声だった。落ち着いた声色だ。
「ここしばらく来れてへんで、ご夫妻が亡くなったことを最近知りまして。よろしければご焼香させてもらわれへんでしょうか」
言われ、守梨は迷う。守梨も一応女性の端くれである。女性ひとりの家に、見も知らぬ男性を入れるのはどうなのだろうか。このあびこは一見平和ではあるものの、治安が良いと言い切れるほどでは無い。それにガラスの一件もある。用心に越したことは無い。
「大変申し訳無いんですが、今は家に私だけで。男性を招き入れるのはちょっと」
守梨が言うと、男性は「ああ、そうですね」と納得してくれた様だった。
「でしたらお香典だけでも手渡したいんですが、よろしいですか。チェーンしててもろて構いませんから」
「それでしたら。お待ちください」
インターフォンを切り、守梨は階段を降りる。ガラスの一件からチェーンを掛ける様になったので、そのまま解錠してドアをそっと開けた。
数センチ開いた隙間から見えたのは、黒いスーツ姿の大柄な男性だった。頭が角刈りで色の薄いサングラスを掛けており、そのいかつさは一瞬一般人では無い様に見えた。守梨はぎょっとしてしまって目を見張る。
「お嬢さんですか? 突然すいません」
「い、いえ」
「この度は、お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます」
見た目は怖いと思ったが、声から受ける印象はそうでも無い。不思議なバランスの男性だった。
「こちら、どうぞお納めください」
男性は手にしていた紫色の袱紗から取り出した香典袋を、ドアの隙間から守梨に差し出した。守梨はそれを両手で受け取る。
「ご丁寧にありがとうございます。ほんまに焼香の件、すいません」
「いやいや、それぐらい用心してくれた方がこっちも安心です。ほなまた、機会がありましたら」
「ありがとうございました」
榊原と名乗った男性は、そのままその場を離れる。気配が遠のくのを感じながら、守梨はドアを閉めた。
リビングに上がった守梨は、さっそく香典袋を開ける。内袋の表面に毛筆で記されている金額が相場の倍あって、守梨は目を剥いてしまう。まさかこんなに。こうして両親のことを思ってくださる方がまだいたのかと、本当にありがたく感じる。
守梨は内袋の裏面に書かれた榊原さんの住所などを、スマートフォンで撮影する。早々に香典返しを手配しなければ。
そして香典袋を元通りに包み直すと、両親の位牌の前に一旦置いて、手を合わせた。そして香典袋を手にまた下に降り、「テリア」の店内に行った。
両親の気配が感じるフロアに出ると、守梨は口を開く。
「お父さん、お母さん、榊原さんて常連さん覚えてる? ご焼香したいて来てくれはったで。今私ひとりで不安やから遠慮してもろたんやけど、律儀にお香典くれはったわ。この暑い中、きっちりスーツで来てくれはって、ほんまにありがたいよねぇ。どんだけこのお店がいろんな人に愛されとったんやろうって。ね」
今は閉店しているのだし、榊原さんにとってはきっとただの行きつけのお店の1軒だろう。無視することだってできただろうに、わざわざ足を運んでくれたのだ。
「このお香典、他のお香典袋と一緒に、位牌のとこに置いとくからね」
お通夜やお葬式でいただいたお香典は、ありがたく四十九日の法要で使わせていただいていた。この榊原さんのお香典も、ぜひ両親のために使えたらと思うのだ。
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