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3章 意図せぬ負の遺産 第5話 未来に思いを馳せて
翌日、日曜日。守梨は祐ちゃんと外で晩ごはんを食べる約束をしていた。
あびこには魅力的なお店がたくさんある。リーズナブルな大衆居酒屋から、まぐろの稀少部位が食べられる小料理屋、餃子が自慢の某中華チェーン店もあるし、オリジナリティ溢れるもつ鍋屋やブランド牛を提供する焼肉屋、薩摩料理店に熊本直輸入の馬肉店など、選びたい放題なのだ。
あびこ中央商店街を中心に道が枝葉の様に分かれ、それぞれの通りで飲食店がしのぎを削っているのである。
そんな中、今日守梨たちが選んだのは焼き鳥屋だった。カウンタ席とテーブル席がある落ち着いた店内で、ゆったりと自慢の炭火焼き鳥をいただくことができるお店である。
テーブル席で向かい合わせになり、生ビールで乾杯し、香ばしく焼き上げられた焼き鳥や、だし巻き卵などの一品料理を堪能しながら、守梨は昨日来てくれた榊原さんのことを祐ちゃんに話した。
「へぇ。おやっさんとお袋さんの人徳っちゅうやつやな」
祐ちゃんは感心しながら言う。守梨は「うん」と応えながら、ジョッキを傾けた。
「しかも相場の倍も包んでくれはって。お香典返し慌ててお送りしたわ」
「何にしたん?」
「皆さんと一緒。カタログギフト」
「妥当やな。その方が喜ばれるやろ」
「うん、そう思う。石鹸とかの消えもんがお香典返しの定番やけど、お値段によってはそんなに石鹸送ってどうないすんねんみたいになるもんねぇ。ネットで一気に手続きできるし、ほんまに助かる」
お葬式の後、祐ちゃんのお母さんにお香典返しのカタログギフトのことを聞いて、考えるのもしんどかった守梨は専用のサイトで一括で申し込んだのだった。もちろん金額によって分けることはしたが、パソコンに向き合って、無心で住所などを入力した。
お通夜やお葬式の時こそ祐ちゃんの両親に頼った部分も多かったが、自分でしなければならないことも多分にあった。それらのことに専念している時には悲しみが薄れ、ああ、怒涛に訪れる儀式にはそういった意味があるのだなと思ったものだった。
今は「テリア」に両親の幽霊がいることが大きな励みになっていて、食欲も戻りつつあった。最初はかすりもできなかったのに、今は気配を感じられるのだ。それは本当に喜ばしいことだった。
もしかしたら気のせいなのかも知れない。それでもそこに両親がいる、それだけで守梨の心に暖かなものが灯るのだ。
「テリア」再開のために、セミナーに通い始めて約3ヶ月。お料理とワインのお勉強も順調と言って良いのでは無いだろうか。アルバイト先のビストロでも、本格的な給仕を修行中である。
レシピの原本は守梨の元にあるが、祐ちゃんも欲しがったので、タブレットで撮影して、祐ちゃんはそれを持ち歩いでいる。祐ちゃんもまだまだお勉強中なのだ。平日夜のお父さんのお料理教室も粛々と進んでいる。
守梨は祐ちゃんが作るものもとても美味しいと思っているので、もうかなり上達しているのでは無いかと思うのだが、祐ちゃんにしてみれば違うと言う。
「おやっさんに教えてもらわなあかん時点で、まだまだやろ」
調理師を育成する専門学校でも、最短で1年は通う。それだけの月日が必要だと言うことだ。祐ちゃんはまだ3ヶ月。そう言われてしまえば、まだ未熟なのかも知れないが。
セミナー終了まであと3ヶ月。その時に守梨がどう成長できているか。お料理のこと、ワインのこと、どれだけ自分の身になっているか。
どうしても気持ちが急いてしまう。両親がいつまでこの世にいてくれるのか判らないのだ。まだこれから料理人も探さなければならないと言うのに。お父さんのレシピ通りに作ってくれる料理人を望むのは、難しいだろうか。
「けど守梨、昨日松村さんにな、言われてん。そろそろドミグラスソースの作り方と継ぎ足し方、教えてもええかもって」
「え!?」
守梨はこの朗報に、つい大きな声を上げてしまい、慌てて口を押さえる。幸い周りのお客さんも騒がしくしていて、守梨たちを意には介しておらず、ほっとする。
「ほんまに?」
「うん。おやっさんに教えてもろてることは言われへんけど、毎日料理してるって話はしてるからな。毎週賄い食べてもろて、それで判断してもろた。守梨、もうすぐ「テリア」にドミグラスソースが戻って来るで」
守梨は表情を綻ばす。眸が潤む。嬉しい。「テリア」が営業していた時、厨房はあの香ばしく濃厚な香りに包まれていた。それが帰って来るのだ。
「ありがとう、祐ちゃん。ほんまにありがとう。凄い」
「おやっさんと松村さんが忖度無しに鍛えてくれはったお陰や」
「祐ちゃん頑張ったやん」
「できるだけのことはな」
「でもそしたら、ほんまに「テリア」再開の目処が立ちそうな気がして来た。あんな、再開して常連さんが戻って来てくれはるかどうかは分からへんねんけど、昨日来てくれはった榊原さんとか、また来てくれはる様になったら嬉しいわぁ」
「そうやな」
また「テリア」がお客さまでいっぱいになれば良い。そうすればきっと両親も喜んでくれる。守梨がお手伝いをしていた時、店内はお客さまの笑顔で溢れていた。自分の采配でまたあの光景を見ることができるなら。
守梨は訪れて欲しいその時を想像し、目尻を下げた。
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