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3章 意図せぬ負の遺産 第7話 思いもよらぬ人
ガラスの時に来てくれた警察官の名刺は、自室の机の引き出しに収めていた。携帯電話の番号も記されていたので、それに掛けるとすぐに出てくれた。
ついさっき恫喝めいたものを受けたことを訴えると、すぐに行くと言ってくれたので、守梨は安堵する。
身体の震えもどうにか落ち着きつつある。警察が来てくれたらきっと安心だ。ガラスの件が何も進んでいないことが少々不満でもあるのだが、警察にもきっと事情があるのだろうし。
あれから被害届は出したのだが、それについてはあれからこちら側に新たな被害は無い。それもあってどうにか自分を納得させられてはいる。悪質ではあるもののただのいたずらだったのだと、そう思うことができていた。
インターフォンが鳴ったのは、それから約20分後。それまでの間、心がざわついていた守梨は「テリア」のフロアにいた。両親のそばにいたかったのだ。
「お父さん、お母さん、慰謝料って何? 何があったん?」
そう問うてみる。しかし答えが守梨に届くことは無い。また祐ちゃんにお願いしないといけないのかと思うと、自分が情けなくなった。
幽霊が見えない体質なのだから仕方が無いのだと分かっていても、もどかしい思いが募ってしまうのだ。
インターフォンを出るとやはり警察だった。しかし女性の声である。ガラスの時は男性ふたりだったので、不思議に思いながら守梨は玄関に向かった。
念のためチェーンを掛けたままドアを開けると、隙間からひょいと顔を覗かせたのは、丸顔の可愛らしい、カーキのカットソー姿の女性だった。
「住吉警察署の丸山です。前回から担当が変わるんですが、よろしくお願いします」
そう言いながら開かれた警察手帳には、間違い無く女性の顔写真。守梨は一旦玄関を閉め、チェーンを外してから開け放った。
「お手数をお掛けしてすいません」
「いえいえ、大変でしたね」
丸山と名乗った女性警察官は、そう言って優しい笑顔で労ってくれる。そして丸山さんの後ろにもうひとり。警察官はふたり1組で行動するのだと、どこかで聞いたことがあった。パートナーなのだろうと顔を見て、守梨は「あ」と声を上げた。
「ええと、確か、榊原さん」
そう、先週両親にお悔やみをくれた、あの榊原さんだったのだ。ジャケットは着ておらず、白いシャツにノーネクタイ、チャコールグレイのスラックス。
守梨が務める会社でもそうなのだが、夏場は男性もノーネクタイにジャケット無しの社員が多い。いわゆるクール・ビズというものだ。警察官にも浸透しているということなのだろう。
そう言えば先週来てくれた警察官ふたりも、しっかりとクール・ビズ仕様だったなとぼんやりと思い出す。
「そうです。覚えててくれはりましたか」
「もちろんです。先週はほんまにありがとうございました。お香典、驚きました。ほんまにお気遣いいただいて」
守梨が頭を下げると、榊原さんは「いやいや」と手を振る。
「僕の精一杯の気持ちですから」
おや、大柄で、失礼だが怖い風貌なのに、一人称は僕なのか。少し意外に感じたが、仕事モードなのかも知れない。
こうしてあらためて見ると、確かに声は太いしいかつい見た目、やはりサングラスを掛けているのだが、醸し出す雰囲気は、女性の丸山さんと一緒だからか、柔らかく感じる。どちらにしても両親のためにわざわざ足を運んでくれたのだから、きっと良い人なのだ。
「警察の人やったんですね」
「そうなんです。今、家は新今宮なんですけど、住吉署に異動になる前はあびこに住んどったんですよ。そん時に記念日で食べた「テリア」さんの味に惚れ込んで、給料後に奥さんと来とったんですわ。新今宮に引っ越した後も、給料の後はここって決めてて。いや、会社にもここにも行きやすいっちゅう理由で、新今宮に引っ越したぐらいで」
放っておけばまだ喋りそうな榊原さんを、丸山さんが「そこまで!」と止めた。
「話を本筋に戻さんと。すいません、春日さん。この人こんなごつい見た目なんですけど、中身おばちゃんなんですよ」
「おい」
ころころとおかしそうに話す丸山さんに、榊原さんは気分を害した風でも無く、にこやかに突っ込む。
「いや、すいませんお嬢さん、お話聞きますから。何やえらいことになったみたいで」
榊原さんがすっと表情を引き締める。すると守梨はさっきの恐怖を不意に思い出し、肩を震わせた。つい和やかな雰囲気に心地が良くなったが、来てもらった目的は不穏なことだった。
「はい。よろしくお願いします。とりあえず上がってください」
そうして守梨は、榊原さんと丸山さんを、リビングに通した。
「お嬢さんが同僚に電話くれた時、たまたまそばにいましてね。「テリア」のお嬢さんの一大事や、そりゃ僕が行かな、てなりまして。石投げ込まれた話も聞きました。僕、ここしばらく和歌山に出向しとったんです、進展が無くて、ほんまにすいません」
榊原さんが頭を下げると、横で丸山さんも「すいません」と倣った。ふたりとも申し訳無さげな表情である。
「いえ、今はもうガラスも無事ですし。それよりも今は、さっきのことの方が怖くて」
守梨は男が梨本と名乗ったことと、慰謝料を請求されたことを話した。
「どんな顔でした? 年齢はどれぐらいとか分かります?」
「顔は怖くて良う見られへんかったんですけど、30台とかやと思います。なんや神経質そうな……あ、蛇みたいなイメージかも知れません。あとは、派手なシャツ着てました。赤いんだか黄色いんだか黒いんだか良う分からん様な」
蛇の生態など良く知りもしないのだが、にょろにょろと巻きつく、絡みつく、そんな印象を持ったのだ。
「粘着質な感じですかね。慰謝料、請求される様なお心当たりあります? ご両親は亡くなられてるんで、難しいかもですが」
「そうなんです。親のやったことって言うてはったんで、両親が生きてた時に何やあったんや無いかと思うんですけど、私は何も聞いてへんで」
「そうですよねぇ……」
榊原さんと丸山さんは困った様に顔を見合わせた。
「とりあえず、名前は分かってるんで、そっから調べてみます。そんなことするぐらいやから、こっちのデータベースにあるかも知れませんし。あとは周辺の防犯カメラ確認してみます。消極的なことしかできんで、ほんまにすいません」
「いえ、こちらこそ」
「何かあったら、すぐにご連絡ください」
「はい。よろしくお願いします」
榊原さんと丸山さんは恐縮しつつ名刺を置いて、帰って行った。
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