余韻ある余生

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「──それで。脳が壊れて、終わるんです」  誰かの声が聞こえた気がして、憲一の朧な意識が浮かび上がる。  簡素なテーブルを挟んで、対面しているのは若い女性だ。ローズピンクの薄い唇に笑みを浮かべ、静かに頷いている。  彼女の後ろには少しばかり立派な机があり、「(チョウ)」とだけ書かれた席札が置かれているが、その席には誰もいない。背もたれに乗った黒猫が、垂らした尻尾を揺らしている。 「自分が自分で無くなる恐怖に追われながら、最期を迎える妻が不憫で……」  また声がした。今度ははっきりと聞こえて、きょろきょろするが、口を動かしているのは、憲一だけだ。女性はローズピンクに縁取られた微笑みを一度も崩していない。  寝言を言って目が覚めた時のような感覚で、憲一はもう一度周囲に目を走らせた。  オフィスの一室のようだ。窓にはブラインドが下ろされていて、外は見えない。  再び記憶が飛んでいることに、憲一はぞっとした。脳の病に冒されているのは江美子ではなく、本当は自分なのではないかと疑いたくなる。それくらいおかしな状況だ。  恐ろしくなって腰を上げると、女が初めて口を開いた。 「お座りください。榎木憲一さん」  名を呼ばれた途端、時計の針を巻き戻すようにソファに体が沈む。座り直した尻に、革張りの座面がひやりと触れた。対して太ももの脇についた手のひらには、さっきまでそこに座っていた憲一の体温がじわりと残っていた。  気が動転して口をつけた茶も、とっくにぬるんでしまっている。  一体いつから、ここにいたのだ。  ここはどこだ。  湧き上がる憲一の無言の問いに、女は小さく笑って答えた。 「へようこそ。あなたのご事情、よくよく聞かせていただきました」
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