遠い昔に起きたこと

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遠い昔に起きたこと

 山頂にて咲き乱れる淡い薄紅の花弁が、風にさらわれ、星にも負けじと身を瞬かせて空を舞う。  (ふすま)にたゆたう黒髪も、月明かりを宿して今宵は一段と艶やかだ。  女人の髪は癖のない方が美しいと嘯かれて長いこの時世にあって、その女は生まれてこのかた、美醜の流行の底辺にあった。  黒髪と言えども、鴉の濡羽のように漆黒でもなく、どこか儚く頼りない(やわ)い墨色だ。背に流れる毛髪にコシはなく、ゆるやかに波打って、櫛は素直に通らない。  そんな女の髪を美しいと愛で、夜もすがら男は丹念に指で梳いた。  今宵は一際、月が冴え、絡ます視線も艶やかに、 零れる雫が褥を濡らす。  引き止めることが許されないのなら、せめて今この時だけでも離しはすまいと、女は愛しい背にしがみついた。  叶うならば、このまま時を止めてほしい──。この先、何も欲しがらないから──。  しかし、いかに強く願おうと時が止まることはなく、憎き朝日は山裾から這い出し、朝を告げる。  陣羽織に袖を通し、夫は別れを惜しんで、(かいな)に妻を抱き寄せた。 「たとえ何処で果てようと」   「一生の願いを使ってでも」 「必ず其方のもとに帰ってくる」 「だから蝶、待っていてくれ──」
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