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一瞬なんと言われたか分からず困惑した。聞き返そうかと迷っていたら、「名前」というようにこの人の薄い唇が動いた。この人、一人称は「私」みたいだけど。やっぱり女性なのかな? そんな考えを一度振り払い、慌てて名前を言った。 「大凪菜弥美です」 「なやみ、ね。オッケー覚えた。よろしくねー」 クラスメイトみたいな反応で若干驚く。 そういえばこの人、室内でもずっとレインコートを脱いでいない。最初からずっとそれを疑問を感じつつも、押し留めていた。 そこで、こっちが名前を言っただけというのもなんだかアンフェアな気がして、私は思わず聞いた。 「あの、お名前お伺いしてもいいですか?」 「私?いや、ダメだな」 「え」 まさかダメと言われるとは思っていなかった。また固まった私を見てこの人は笑う。 「じゃあ代わりに仮名教えてあげる。仮名は、ロゼ」 「ロゼ……さん?」 聞き返すとロゼさんは、口角を綺麗な三日月型にして微笑んだ。 「てなわけでよろしく。なやみちゃん、カフェオレどう?」 さっき一口飲んだ限り、温度はちょうどよかったけど……。 「あ、おいしいです」 ……実際はコンビニで売っているそれとあまり変わらないなと思った。だけどこの程度の気遣いなら私でもできる。 そう思っていたのに、ロゼさんは「いや嘘だね」とさっきとはまた違った笑みを浮かべて言った。 「正直喫茶店の方は本業じゃないから。一流のバリスタが淹れるようなやつを期待しないでくれよ」 ロゼさんはレインコートのフードを被り直しつつ、少し気恥ずかしそうに「期待してもないか」と呟いた。 しばらく、沈黙が訪れる。店には特にbgmもなく、カウンターの奥にかけられた古めかしい時計のカチカチという音が、やけにうるさく響いている。開いた窓から、電車の騒音や駅構内のアナウンスが遠くに聞こえてくる。 ───なんでだろう、ここにいると。 この世界が全て、自分がいる空間と全く別の空間にあるように思えてくる。 いくら狭い部屋に一人で閉じこもったって、これと同じ感覚は味わえないと思う。 この店の独特の雰囲気というか、壁に貼られた写真からの適度な圧迫感と、今目の前に立つロゼさんの非日常感が、私が私であることを忘れさせてくれる。 そんな空気がすごく、気に入った。
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