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僕たちの、あるべき距離へ
僕は飯塚 明雄
大学を卒業してから既に3年。
大学の先輩が立ち上げたベンチャー企業で企画を担当して、頑張り続けた結果、主任なんていう分不相応な肩書を持っていたりする。
日々の業務に追われ、ベンチャーゆえに人手が足りないため様々な作業を兼業し、フラフラになりながら家に帰り着くのがいつもの日課。
平均帰宅時間はだいたい21時。
遅ければ終電で午前様。
そんな社畜生活を続けている。
高校生の頃に、大好きだった女の子が予想した『ヨレヨレの背広を着たサラリーマンみたいな感じ』というのがぴったり来る未来になっていて、僕は少し苦笑を浮かべる。
でもそれで良いんだと思う。
だってこんなくたびれたサラリーマン生活にだって、潤いはあるのだから。
「ただいま……」
言いながら玄関から家に入り、靴を脱ぐ。
すでに玄関先にまでいい匂いが漂ってきていて、僕のお腹が大げさにグゥゥと音を立てた。
「今日はちょっとだけ早かったね。いつもくらいだと思ってたから、急いで準備するね」
玄関から真っ直ぐ続く廊下の先、リビングからひょっこりと顔を出して彼女が言う。
あの頃とは違い、今は長くなった茶髪を後ろで一括りにした、快活そうな女性。
僕と同棲して居る彼女の名前は高崎 水琴。
高校の卒業式で、思いを伝えあった僕たちは、あれから何度も破局の危機を迎えながら、それでもその度に仲を深めあって今も交際している。
正しく言うなら交際を経て同棲をしている。
同棲を始めてからもう2年になる。
僕としてはそろそろ、彼女との新しい関係を始めたいなと思っている。
今まで勇気を出せなくて、ずっと渡せない小さな箱をカバンの中に収めたまま、僕はこのところなんて切り出そうかってことばかりを考えている。
話を切り出せない理由はいくつかあるけれど、今回ばかりは僕がヘタレているからではない。
もっと別の理由、ある意味人生を左右するであろう理由がそこにはあったから。
その問題を解決しないまま、僕たちが新しい関係を築くことは、良くないことだと思うから。
だから僕はこの3ヶ月の間、この箱を彼女に渡すことが出来ないでいる。
「ねぇ……明雄。私ずっと考えたんだけど……今の仕事やめようかなって思う……」
水琴が用意してくれた夕食を食べているとき、彼女が唐突に口を開く。
水琴はパタンナーになるという夢を抱いていた。
服飾専門学校を卒業した彼女は、先輩に誘われてとあるデザイン事務所に所属して、一応夢であったアパレルに関わる仕事にはついた。
だけど新興デザイン会社のため、彼女が望むパタンナーの仕事に専従することが出来ず、余り得意ではないデザインや、営業なども兼務することになり、その中で夢や希望を徐々にすり減らしていくことになった。
それでも憧れていた業界に就職できたのだからと、彼女は必死に食らいついていたのだが、最近は殆どを営業ばかりさせられるようになり、悩み始めていた。
「営業以外の仕事は……させてもらえないの?」
鯖の塩焼きに箸をつけながら訪ねてみる。
「いまね……発注が落ち込んでいて、かなり厳しいって言ってた。まずは注文を取らないとって。だから毎日営業ばかり。もう2ヶ月位はデザインも型紙も触ってない気がする……こんなはずじゃなかったのにな」
余り元気がないのか、箸が止まりがちになっていた水琴が言う。
「…………ねぇ……、もう……辞めようかな……」
すごく力のない声で、水琴がポツリと漏らす。
彼女が出会ってから今日まで、何回も弱気な言葉は聞いたことがあるけれど、コレほどまでに力のない声は初めて聞いたような気がして、僕はちょっと驚いて目を見開いたまま水琴を見つめる。
「私のやりたかったこと、目指した夢ってなんだったんだろうなって……」
「水琴は……それでいいの? この先どんな仕事になるかわからないけど、パタンナーになりたいって諦められるの?」
僕は語気が強くならないように注意しながら、努めて優しく問いかけてみる。
その僕の言葉に、水琴は答えられなかった。
何か言いたいことはあるようで、何度か僕の方に顔を向けて口を開きかけるが、そこ唇から言葉が溢れだすことはなく、何かを諦めたようにギュッと唇を感で顔を伏せる。
「答えは急がないからさ、ゆっくり考えて……後悔しないようにしようよ。僕たちは支えあえるから……なにがあっても水琴の味方でいるから……さ」
僕は俯いたままの水琴の頭を軽く撫でるとそういった。
水琴は泣いているのか、震える声で何度も、うんと答えてくれた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
まだはっきりと覚醒しない頭を軽く左右に振りながら、私はゆっくりとベッドから身を起こす。
ふと隣を見ると、いつもそこに居る姿が無くて、私は急に不安を覚えて直ぐに目が覚めた。
恐る恐る手を伸ばして見るが、私の隣―いつも彼がいるはずの場所―は冷え冷えとしていた。
手のひらから伝わる冷たい感触。
かなり長い時間、そこには誰も居なかったと告げてくる冷たさ。
慌ててベッドサイドにおいてある目覚ましを見る。
まだ朝の6時という時間を時計は告げていた。
彼が出勤するような時間ではない。
それにこんなに彼が寝ているはずの場所が冷えているということは、彼は私が寝入った直後から、ここには居なかったのかもしれない。
なんで……
不意に疑問が頭に浮かぶ。
どうして
意味も無く涙がこぼれそうになって、唇をぎゅっと噛む。
ぐっとこらえないと、今すぐにでも泣いてしまいそうだった。
目に痛みが走り、鼻の奥がつんっとするこの感覚。
彼のそばに居るとき、久しく感じなかった感覚。
昨日私があんなことを言ったから、彼は私に愛想を尽かしてしまったのだろうか。
考えたくない疑問が、次々と湧き上がり、必死にこらえているはずなのに、ドンドンと私に痛みを与えてくる。
とにかくここでじっとしていても始まらない。
家の中を探してみよう。
ようやくにして私は決心し、慌ててベッドから飛び降りてまずはリビングに向かってみる。
もしかしたら彼は朝食を作るために早起きしただけかもしれないなんて、あり得ないことを期待してみる。
しかしリビングには誰の姿も無かった。
膝から崩れ落ちそうになるのを必死にこらえ、何か状況を理解出来るものを見つけようと私はあたりに視線を向ける。
その時、食卓の上に1枚の紙が置かれているのを見つけた。
一瞬だけ【離婚届】という言葉が脳裏をよぎったけど、そもそ私達は結婚はしていない。
だからそこにある紙が離婚届のはずがないことにすぐ思い至り、恐る恐るその紙を手に取りゆっくりと目を通してみる。
「僕たちの始まりの場所で君を待っている」
紙には見慣れた彼の字で、短くそれだけが書かれていた。
何故いきなりこんなことを。
それが一番最初に脳裏に浮かんだ言葉。
私が道に迷い、行く先を悩んでいることで彼がこのような行動をとったことは予想出来た。
ただなぜこの行動に出たかだけは思いつかない。
分からないけれど、それでも彼がそばにいないこの状況が耐えられない。
私は直ぐにでも彼の言う、始まりの場所というものが思い浮かばなくて、立ち尽くす。
考えるんだ私。
彼がわざわざ置き手紙を残してまで、とった行動の意味を。
昨日の私たちの会話を。
この数日の私の振る舞い、彼の行動を。
そして私はゆっくりを目を閉じた。
落ち着くために、ゆっくりと息を吸って吐く。
私の心は決まっていた。
頭の中に浮かんだとある風景。
私は迷うことなくその場所に向かうことにした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
私がその場所にたどり着いたのは、太陽がかなり高くなった時間。
私たちの始まりの場所。
その言葉で思いついたのは、私たちが通っていた高校だった。
もっと言うなら、校舎の裏のあまり人気のない場所。
私が告白を失敗し、通りがかった彼が私を慰めてくれ場所。
一瞬だけ、卒業式で私が思いを告げたあの場所も脳裏をよぎったが、始まりの場所という言葉で私は校舎裏を選択した。
友達と思い込んでいた彼の、優しさに触れて彼のそばでなら、私は私でいられることに気がついた場所。
初めて微かに灯った思いの光を感じた場所。
もし私の予想が外れていたら……という不安がない訳では無かった。
だから、校舎裏で地面に腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げている彼の姿を見つけた時、私の心の底から安堵した。
「早かったね、思っていたよりも随分」
私の気配を感じたのだろうか。
空を見上げていた彼は、視線を下ろして私を見つめて、そして柔らかく笑った。
「なんで……こんなこと……。ほんとに心配したんだから。私あなたに幻滅されたのかって」
感情が溢れ出して、思わず涙声になってしまう。
「水琴に幻滅することなんて、ありえないよ。僕は君の全てを受け入れるって決めているから」
「じゃあ……なんで、なんで居なくなるのよ」
高ぶった感情を彼にぶつけてしまう。
彼を見つけるまでに感じた不安、恐怖。
彼を見つけて安堵したからこそ、それによって生み出された感情は、自分で思うより強い口調で彼に向かって吐き出された。
「ここから始まったんだよね。だからねここで水琴に伝えたかったし、思い出して欲しかった」
彼はそういうとゆっくりと立ち上がり、尻についた汚れを手で払うと、私に近づいてきた。
「水琴は僕に夢を語ってくれたよね。その夢は今のところ思うように行かなくて叶っていないけれど」
彼の言葉に私は黙ってうなづいた。
「ここに来て、思い出して欲しかったんだ。夢を抱いたあの頃の自分を。そして本心から決断して欲しかった。水琴が夢を追いかけるにしても、諦めるにしても、僕はずっとそばにいて君を守る。だから水琴も本当の気持ちで決めて欲しいんだ」
彼の目が真っ直ぐに私を見つめている。
その視線は、私の心の奥底まで見透かしているようで、本当はまだ夢に未練を残している自分の心が、彼には見透かされているような気がして、私は軽く羞恥を覚えた。
「諦めたく……ない、よ。でも 明雄はどんどん社会人として成長していて、私だけが夢を見続けて全然成長出来ていなくて……釣り合わないんじゃないかって怖くて……」
初めて口にした本心。
社会人として夢ではなく現実を追いかけて、そして成長して結果を出している彼と、夢を追い求めて、夢以外のほかのことはないがしろにしてしまっている自分を比べて、私は焦りと劣等感を抱いていた。
「水琴……大事な……話があるんだ。聞いてくれないか」
彼が真面目な顔で、私に言う。
その言葉に私は、恐怖に近い感情を抱いてしまった。
彼があまりにも真剣な表情をしていたから。
その声がとても緊張していたから。
だからもしかすると、最悪の言葉が彼の口から出てくるのではないかと、恐れた。
「僕はね……夢を語る水琴がとても眩しく感じて、そんな君をずっと応援したいと思ってる。出会った時から今も変わらない君の真っ直ぐなところを愛してる。だからこれから先、夢を追いかけ続ける君をそばで見守らせてくれないか。夢が叶った時、隣で祝福させてくれないか……僕と生涯を共に歩んで欲しい」
彼は一息にそれだけを言うと、上着のポケットから小さな箱を取りだして、私の目の前に差し出して、それを開いた。
小さなダイヤの着いた綺麗なリング。
私たちの恋が動き始めた場所で、私たちの新しい物語が始まる。
それは高校生の恋愛みたいに、甘くて切なくてでも夢見がちなものではなくて、時には泥臭くて痛みを伴う物語になるかもしれない。
だけどきっと、それでも私たちは幸せそうに笑い合いながらその物語をあゆみ続けられるのだろう。
「私こそ……ずっと、ずっとあんたの隣にいたい。 明雄とずっと一緒に生きて生きたい……私をあなたの妻にして……」
私は彼の胸の中に飛び込む。
昨日まで抱え込んでいた悩みが、嘘のように消えていた。
彼がそばにいてくれるなら、夢を諦めないという気持ちを持ち続けたら……きっと全て上手く行く。
根拠の無いそんな想いと、抱えきれないほどの幸せを感じながら、私は彼の体を抱きしめて、今度は幸せの涙を流すのだった。
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