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「……早いもので、みなさんの高校生活も六分の一が過ぎています。もう少ししたら進路希望調査票を書いてもらいますので、将来について考えておいてくださいね」  担任の先生の連絡事項を最後にホームルームが終わり、がらがらと椅子を引く音が教室を満たした。  重たそうな荷物を背負い部活へ向かう人、友達同士で放課後の予定を話し合う人、教室に残り談笑を続ける人。  それぞれが放課後を謳歌する中、僕は誰とも言葉を交わさず、一人で早々と荷物をまとめて廊下に出た。  階段を降りるたび、左手に提げた弁当箱が揺れる。今日は午前授業だから弁当は不要だったのだけど、いつもの癖で用意してきてしまったのだ。  この後は夕方まで学校近くの図書館に籠り、宿題を片付けてから帰宅する予定。正門を出た僕はまっすぐ駅には向かわず、図書館までの近道である大きな市民公園を横切っていた。    銀色の防護柵を避けて公園の敷地に入り、金木犀の香りが漂う並木道を歩く。ほのかに紅や黄に色づいた葉が、十月の風に揺られてさらりと音を立てた。少し遠くのグラウンドから、野球をしている小学生の男の子たちの楽しげな叫び声が聞こえてくる。  図書館は確かこっちの方だったか。少し前に一度だけ行った記憶を頼りに足を動かす。しばらく歩くと、学校のグラウンドより一回り小さいくらいの池が見えた。池の直径にあたる部分にちょうど人が二人通れるくらいの橋があり、僕はそこに右足を乗せて池の向こう側を目指した。  橋の下の水面は青空と紅葉を映し出し、小風に揺られて鱗のように細かく波打っていた。    鱗の向かう方向をなんとなく視線で追っていくと、僕から見て左側の岸に、小さな東屋が見えた。  ややくすんだ群青色の瓦屋根を、四本の枯茶色の柱が支えている。屋根の下には四角いテーブルとその四辺を取り囲むベンチ。どちらも焦げ茶色。  手前のベンチの真ん中にぽつんと、小さな紺色が添えられていた。  あれはうちの制服。女子生徒だ。  ブレザーに覆われた両腕で膝を抱え、上半身を大きく折り曲げてうつむいている。    遠目からではよくわからないけれど、木陰で気持ちよく休んでいる、というようには見えないうつむき方だった。  僕は橋の真ん中で立ち止まり、東屋の中の紺色をしばし眺めた。あたりに人はいない。それはつまり、今彼女の状態を観測している人間がこの世に一人しかいないということだ。  橋を渡った僕は、そのまままっすぐ進む予定だった足を左に向けた。  のどかなすずめの鳴き声に励まされつつ、枯葉を踏んで東屋の前にたどり着いて。  とてつもない勇気とともに、乾いた唇を動かした。 「あの、大丈夫ですか?」  勢いよく顔を上げた彼女の瞳は、怯えと驚きに染まっていた。肩ほどまである髪はかきむしられたかのように乱れていて、前髪はかすかに目にかかるほどに長かった。青白くげっそりとした彼女の顔を見て、僕は一瞬ここが病室であったかと錯覚した。 「あの、えっと」  自分から声をかけたくせに意味のある単語を発音できないまま、彼女と視線があったまま数秒間が経って。  突然、頭の中の景色が、半年前の入学式の日に巻き戻った。   「蓮見さん?」  虚ろな目をした彼女は、クラスメートの蓮見(りん)さんだった。
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