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「え?」
彼女はさっきよりも少し高い声を出し、それから僕と弁当を交互に見やった。
「今日、午前で終わりなのに間違って持ってきちゃって」
彼女は少し迷うようなそぶりを見せてから、おずおずと手を伸ばし、弁当箱を手に取った。僕は弁当箱の入っていた袋から割り箸を取り出し、彼女に手渡す。
彼女は白い箸袋から割り箸を取り出して、どこかぎこちない動作で割った。うまく割れず、右の一本が大きく欠けて、もう片方が二本分の箸頭を抱えた。
不揃いな割り箸が、ゆっくりと弁当箱の中に降りる。選ばれたのは卵焼きで、ほのかに焦げのついた黄色がふわりと凹んだ。
彼女は一度ちらりと遠慮がちに僕を見てから、卵焼きを口の中に放り込んだ。油が一部唇に取り残され、赤い唇がつややかに輝いた。
少しの間彼女の口がもぐもぐと動いて、それから、白い喉が大きく波打った。
あたりを囲む、すずめの鳴き声。
やがて彼女が、空っぽになった口を開いて、ひとこと。
「……おいしい」
か細い声が、僕の鼓膜に入り込み。
じわじわと、全身が温まるのを感じた。
「ほ、ほんとに?」
彼女は、弁当箱に視線を向けたまま小さく頷いた。肩ほどまで伸びた髪が、稲穂のようにさらりと揺れる。
「汐田くん、だっけ。たしか、隣だったよね」
「あ、うん」
割り箸の入っていた袋が風で飛ばされそうになり、彼女が左手で素早くそれを押さえた。白い袋が、紺色のスカートと血の気の薄い人差し指の間に挟まれる。
……無言。
あちこちの皮膚がむずがゆくなり、気を紛らわすためにバッグの肩紐を右手の親指ですりすりと擦った。
「あの、なんかごめん、急に声かけちゃって。でも、お腹空いてたみたいだから……」
「ううん。おいしかったよ、ありがとう」
彼女は割り箸の上で右手の人差し指を滑らせてから、こう続けた。
「こんなおいしい卵焼き作れるお母さんいるなんて、うらやましいなあ」
「あ、えっと」
喉まで出かかった言葉を、一度はせき止めた。
けれど、外気が磁力を帯びたように、その言葉は唇の外へ出る。
「それ作ったの、僕なんだ」
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