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「どこから来たの?」  豪雨の中、頼りないビニール傘を刺す私の前に貧相な見た目の少女がひとり。 私の問いに指を刺して答える。 「お名前はなんていうの?」 『イ……』  掠れた声は、豪雨に掻き消されてしまう。 辿々しく動く小さな唇の動きを読む。 「イト……それが貴女の名前?」  頷く、目にかかった前髪が邪魔をして表情を確かめることはできないけれど、只事ではないことだけは確信できた。 「イトちゃん、年齢……何歳か、お姉さんに教えてくれるかな」  無数の切り傷がついた指が伸びていく、首を傾げながら私の顔の前へ突き出す。 「六歳……?」  頷くたびに揺れる頭を今にも折れてしまいそうなほど細い首が支えている、全てが不安定で少女から離れることができなかった。 渋滞した車のクラクションと、地面に刺さる雨音が響く。 「お父さんとお母さん……いや、誰か一緒に来た人はいる?」 「知らない」 「えっ……」 「私、ひとりで、きた。これだけ、渡されて、ひとりで、きた」  少女の手にはルーズリーフの切れ端が握り締められている。 他人の私が中をみていいものか躊躇いながら、差し出された紙を受け取る。 『貴女の名前はイト、私は貴女の母親じゃない。次に貴女に手を差し伸べた人が母親、その人のことを『お母さん』と呼びなさい』  六歳に宛てた手紙とは思えないほど冷酷で、少女には読めないであろう漢字ばかりが綴られている。あまりに無責任な言葉の羅列に少女へ掛ける言葉が見当たらなかった。 「これ……誰から渡されたの?」 「女の人」 「お母さん?」 「違う、女の人」  淡々と言葉を吐く少女に対する反応の正解がわからない。 「お母さん」 「え……」 「お姉さん、イトの、お母さん」 「違うよ……私は貴女のお母さんじゃない……」 「寒い、私、帰りたい」  震えた少女の腕に触れると、人の温度とは思えないほど冷たくなったいた。 表情はわからない、声も掠れていて心情を読み取ることは不可能に近い。 「ねぇ、イトちゃん」 「……」 「少し歩くようだけど、私の家……来る?」 「……歩く」  転ばぬように少女の手を掴むと、その小ささに息を呑んだ。 『痛い』と立ち止まる少女を抱き抱え、アパートの階段を登る。 「このタオルで自分の身体、拭ける?」 「……ん」 「私は見ないようにするから、拭けたら教えてほしい」  水を含んで重くなった服が落ちる鈍い音が響く。 少女の身体をみてしまうと、踏み込んではいけないところへ同情してしまいそうで怖かった。 「拭けた、服、着た」  着なくなった私の服を着せ、電子ストーブの前へ連れていく。 乱雑に散らかった服を除け、隙間をつくる。 「ねぇ、イトちゃん」 「イトで、いい」 「わかった、イト」 「なに?」 「どうして、雨のなかに一人でお外にいたの?」 「私、家、出された」 「それは……」 「女の人、この紙渡して、私を出した」  途切れながら発せられる単語から連想する。少女の言葉から繋がっていく話は恐ろしく、二十歳の私ですら受け入れ難い壮絶なものだった。 奇妙なほどに抑揚のない口調と変わらない表情、一点を見つめ続けている澄んだ瞳、六歳とは思えないほどの冷静さ。 感情を抱かないようにすることが少女の生きる術なのか、それなら動揺しないことが今の私の役目か。 「イト」 「なに?」 「イトは、私といて怖くない?」 「怖くない」 「それならよかった、ありがとう」 「『ありがとう』、それ、何?」  少女からの問いに息が詰まる。 その問いから、少女が愛の無い環境で息をしてきたことを痛いほど察してしまう。 六年この世で息をして『ありがとう』の一言の意味すら知らない、少女にとっての六年は酷く無機質なものだったのかもしれない。 「イト、『ありがとう』って言うのはね」 「うん」 「目の前の人に、心を温かくしてもらった時に言う言葉なんだよ」 「心は、暖かくも、冷たくも、ないよ?」 「そうなのかもしれないね、でも『ありがとう』の意味は忘れないでいてほしいな」 「わかった」 「私と約束できる?」 「約束、は、どういう意味?」 「大切なことを守るっていう意味だよ」 「大切、わからない、でも、わかった」  首を傾げる少女の小指と、私の小指が交わる。 戸惑いながら曲げられた少女の指の感触を掬うように記憶する。いつか少女が本当の意味で『ありがとう』を口にできるように、『大切』の意味を体感できるように、願いながら、祈りながら、私は指を解いた。 「お母さん」 「ちが……どうしたの?」 「連れてきてくれて、よかった」  少女の表情の無い瞳がみえる、薄く茶色がかった瞳。 色素の薄いまつ毛と、少し大人びた涙ぼくろ。淀みのない、澄んだもの。 「あのね、もう帰るから、だから、最後に名前、教えて」 「私の名前を……?」 「イトはイト、お母さんの名前、教えて」 「蒼、私の名前は蒼だよ」 「わかった、アオイ、じゃあね」  外に出るには薄すぎる服のまま、壊れかけのサンダルを履き少女は扉を開け、飛び出す。 あとを追う足を躊躇う心が止める。小さくなっていく少女の背中を追い続ける。 やがて見えなくなった姿に息を詰まらせながら扉を開け、浴槽に目をやる。少女の服と、飛び散った泥の跡が残っていた。 飛び出していく少女の手を引けなかった未練を埋めるように、少女の服を抱きしめる。 乾かし、ベッドに連れていく。廃れた服に少女の影を重ねる。 潰さぬように、添うように隣で目を瞑り眠りについた。    
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