第一章

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 リードを外した青年の隣で愛車のハンドルを握った忍に、青年が尋ねる。 昨日の夜中目が覚めた時から感じていたことだ。 「なぁ、アンタってかなり金持ちだろ? 家もすげーしクルマもこれ……レクサスっていうのか」 「LSだ。好きな車種でね。世間一般に言えば僕は高所得者になるとは思う。どうしてそんなことを?」 言いにくそうに言葉を濁す青年を横目でチラリと見る。視線を受け止めた瞬が窓の外に目をやった。 「……今までもいたからな。金で俺を買おうとしたやつ、いくらでも……。世の中にはそーゆー性癖もあるんだってな。珍しいモン抱いてみたいっていう変態。女もいたぜ。俺をペットにしようとするセレブなマダム」 忍は沈黙する。 彼を取り巻く環境がこうさせたのだろうとはいえ、ここまで警戒されると少し傷つく。思わずため息が漏れた。 「……僕はそんなに信用ならないかい?」 やや冷たい声になってしまったと後悔しながらもう一度視線を送っておや、と片眉を上げる。 こちら以上にショックを受けた顔をしている。 犬というのは叱られると過剰に落ち込むところがあるのは知っていたが、こうも素直だと揶揄いたくなってしまう。 「仕方ないな、そんなに君が落ち着けないなら里親を探そうか。どんな人に当たるかは運次第だけれど、僕の元にいたくないなら──」 「──……やっぱりてめぇもじゃねーか」 見開かれた瞳の中で虹彩が震えている。 「結局そうなんだ、俺を拾った奴は結局最後は置いていく。実の母親だってそうだったんだ……期待した俺が間違いだった!!」 そのままドアを開けて飛び出そうとする彼に慌てる。手元でドアが開かないように咄嗟にロックした。 「危ない!」 ハンドルを握りながらその腕を掴んで引き寄せる。 我知らず声が厳しくなってしまう。 「分かってる? 今君は走ってる車の中にいるんだよ? いくら人間より運動神経が良くても闇雲に飛び出して死んだらどうする。死にはしなくても大怪我を負ってその姿のままでいたら君はそれこそ実験台だ。もういい加減わかってほしいね──僕は君を拾った以上最後まで面倒は見る。置いて行きもしなければ君をそういう目的で金で買ったわけでもない。大体君は記憶がないというけれど、昨日僕は君にリードをつけて引きずってきたわけじゃないんだよ? 君が君の足で僕についてきたんだ。素直になったらどう?」 「…………っ! それは……それは……」 「Bad boy」 呟いた忍に瞬が目を見開く。本当ならば一番使いたくないコマンドだ。コマンド、と言うよりは懲罰的な意味合いの強いこの言葉はSubの自己肯定感を徹底的に打ちのめしてしまう。ただでさえ自罰傾向の強いSubには本来必要のないセリフなのだ。だが、今日の彼を見る限りあまりにも自暴自棄にすぎて少しでもストッパーをかけておかなくては危なっかしくて見ていられなかった。 俯いてしまった瞬の姿にようやく忍は溜飲を下げた。片手を伸ばし、その髪を撫でる。 「叱るのはここまでにしようか。今日は半休しか取れなかったからね、僕はこのあと仕事だけど、どうする? 家で大人しく留守番できる? 職場に着いてくるならそれでもいいし」 切り替えるように優しく声をかけたが、瞬は顔を上げない。 もう一つため息をつき、忍は自宅マンションへと車を向ける。 帰ってきた時にちゃんと大人しく待っているかはわからない。 いなかったらその時また考えよう。 自身の経営する会社なので、忍の出社先は社長室だ。 簡易的なものとはいえシャワー室も備わった快適な空間である。高層階からの眺望が広がるガラス張りの広々としたその部屋で、黒の革張りの椅子に腰掛けたまま忍は憂鬱にコーヒーを啜った。 社長室の外から女性社員がその憂いを帯びた姿に頬を染めているが、本人は自分の顔立ちを意識しておらず全く無頓着なのがタチが悪い。 黒のビジネススーツに身を包んだその容姿は、若手実業家らしからぬ貫禄に加えて思わず息をしているのを疑うほど整っているときているのだからもっと自覚してもらわないと困ると社員たちは常日頃思っているのだった。 ともあれその憂鬱の原因はもちろん、昼前に自宅に置いてきた青年だ。 自分にしては大人げなく厳しく叱ってしまった。 犬科ならではの従順さを利用されては裏切られてきたであろう瞬には堪えただろう。彼があそこまで用心深く人間不信になったのは彼のせいではない。 (可哀想なことをした……出ていってしまったかもしれないな) スマートフォンを開き、昨日寝る前に撮った写真を開く。 毛布にくるまって眠る大きな狼。 「可愛かったな」 秘書が社長室をノックした。忍はスマホを閉じ、パソコンの画面に意識を向けた。 一方その頃、瞬は忍の自宅で忍のベッドに横になっていた。 使用許可は本人から得ている。 君は背が高いからね、ソファじゃ窮屈だろう。 立ち去る間際に向けられた男の笑顔を思い返す。 顔立ちがきれいだからというのもあるが、あの男には本人がわかっていない魅力がある。だからつい疑ったのだ、それを武器にまた自分を手にかけようとする輩なのかと。 だが、向けられた叱責は思いの外厳しかった。 あれは瞬を強引に手に入れようとするものではない。理性的に諭されたのは初めてで、瞬はどう返事をしていいのかわからなかった。 思わず撫でられた感触の残る髪に手をやる。 忍の手を思い返しながら布団にくるまると、当然のようにその布団から忍の香りがして言いようのない安堵感が押し寄せた。 この体になっている間、瞬の嗅覚は人間よりもはるかに鋭くなる。忍の匂いはその優しく撫でる感触を思い出させ、どうにも体が熱くなって困る。それに、忍の命令や誉め言葉には体の奥から痺れるような快感が伴う。それがなぜなのか、瞬には全く分からない。分からないがゆえに耐えがたい甘さだった。 しばらくその匂いに酔っていた瞼が午後の光の暖かさに下がる。 これも狼の習性なのかこの体の間は妙に日中眠くなってしまうのだ。 抗うだけ無駄だ。 (もうどうにでもなれ……) 心配しなくても忍は今までの人間とは何かが違う。眠りに落ちるまで時間はかからなかった。
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